金大中
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金大中 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 김대중 |
漢字: | 金大中 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
きんだいちゅう |
片仮名: (現地語読み仮名): |
キムデジュン |
ラテン文字転写: | Kim Dae-jung |
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金大中(キム・デジュン、1925年12月3日 - )は、大韓民国の政治家、第15代大統領(在任:1998年-2003年)。カトリックで洗礼名はトマス・モア。 日本語読みでは「きんだいちゅう」。
目次 |
[編集] 来歴
全羅南道荷衣島(現在の新安郡)生まれ。運送業を経て、1954年国会議員に初当選。張勉に引き立てられ、民主党スポークスマンを務める。以降も、当時の李承晩大統領の政策に反対する姿勢で活動した。1961年にも国会議員に当選しているが朴正煕による軍事クーデターにより無効となっている。その後も野党政治家として活躍し、1970年9月に民主党の大統領候補に指名される。翌1971年年の大統領選では現職の朴正煕に97万票差にまで迫った。この大統領選の直後、交通事故を装った暗殺工作に遭い、股関節の障害を負うことになる。
朴正煕による十月維新の後は日米両国に滞在しながら民主化運動に取り組んだ。1973年8月8日、東京に滞在中、ホテルグランドパレスで謀殺を意図した韓国中央情報部によって拉致され、ソウルで軟禁状態に置かれた(金大中事件)。1976年3月には尹潽善らと共に「民主救国宣言」を発表、逮捕され懲役判決を受けるも、1978年3月に釈放される。1980年2月19日には公民権を回復・政治活動を再開するが、5月18日に再び逮捕。これが原因となって光州で起きた民主化要求のデモを軍部が鎮圧し、流血の惨事となる(光州事件)。このため軍法会議で首謀者として死刑判決を受けるが、無期懲役に減刑の後、1982年12月23日に米国への出国を条件に刑の執行を停止される。
1985年2月8日に亡命先の米国からの帰国を強行し軟禁状態に置かれたが、1987年には再び公民権を回復、大統領選挙で盧泰愚に挑むものの、金泳三と分立したことが文民勢力の分裂を招き敗北。1992年にも再び金泳三、鄭周永らを相手に大統領選を戦うも敗北。これをもって金大中は政界引退を表明した。その後研究生活に入り、論文を書く日々を送っていたが、次回大統領選挙に向け動向に注目が集まっていた1995年、新政治国民会議を結成し総裁に就任。政界復帰した。
1997年の大統領選挙では与党ハンナラ党の李会昌、ハンナラ党内での予備選に敗退した李仁済を相手に戦った。与党の強力な集票力に当選を危ぶまれたが、保守派であり朴正煕の片腕だった金鍾泌と手を結び(いわゆるDJP連合。ちなみに両氏は共に金海金氏である)、また度重なる敗北を逆手に取り「準備された大統領」をキャッチフレーズに戦い、アジア通貨危機への対応能力をアピールした。結果、自らの地盤である全羅道地域で圧倒的な支持を得、金鐘泌の地盤である忠清道地域、浮動票の多い首都圏での支持を得ることに成功した。また、李仁済の立候補により保守票が割れたことにも助けられ、当選した。
大統領に就任したのはアジア通貨危機の直後であり、経済的な危機はつづいていた。金大中政権は引き続きIMFの介入を全面的に受け入れたうえで、経済改革に着手した。IT産業奨励やビッグディール政策(財閥間の事業交換、統廃合)をもって経済建て直しを図った。これにより韓国は内外から「IT先進国」と呼ばれるようになり、サムスン電子や現代自動車の世界市場での地位を高めた。しかし、急激な産業構造の転換は貧富の格差の増大などを招き、元々の彼の支持層に当たる労働者の反発を招いた。
北朝鮮に対しては太陽政策と称される宥和・関与政策を志向した。2000年に、北朝鮮の平壌で金正日との南北首脳会談が実現。南北首脳会談などが評価されノーベル平和賞を受賞した。太陽政策は任期中、宥和政策として機能したが、関与政策としての役割を果たしたかどうか議論の余地がある。
自ら中央情報部に拉致された金大中だが、1999年には国家安全企画部(旧・中央情報部)を廃止し、大幅に縮小した国家情報院を大統領直属機関として新設した。
朴正煕、全斗煥、盧泰愚、金泳三と4代続いた慶尚道地域出身の大統領から全羅道地域の金大中へ権力が移ったことにより地域対立の打破が期待されたが、当選時の経緯や、共に与党である新政治国民会議と忠清道地域に影響力を持つ自民連の統合が頓挫したことにより、この分野では目覚しい成果を上げることが出来なかった。
金大中に対しては、野党時代の民主化の闘士としての活動に高い評価がある反面、政権時代のポピュリズム・地域偏重主義には批判もある。
退任後は政界を引退した。延世大学校付属の金大中図書館設立に携わるなど政治とは距離を置き、研究生活を送っている。
日本による併合統治時代の教育を受けており流暢な日本語を話すことができるため、日本のマスコミ向けのインタビューでは日本語で応じる事が多い。
韓国国内での日本大衆文化開放を始めたのは、金大中政権からである。
2006年6月に北朝鮮を訪問する予定であったが、北朝鮮のテポドン発射問題によって取り消された。
[編集] 対北送金
金大中は南北首脳会談の直前に現代グループが北朝鮮へ5億ドルを違法に送金をするのを容認した。現代グループはこれにより北朝鮮における事業の権利を得た。このため首脳会談は送金の見返りだったという見方があり、ノーベル賞受賞に疑問をなげかけた。
[編集] その他
- 大統領になるまでの自宅軟禁、投獄期間は約10年に及ぶ。
- 金大中大統領は死刑判決を受けた北朝鮮の元工作員の辛光洙(シングァンス)容疑者を恩赦で釈放した。
- 2001年3月7日、ワシントンで行なわれた米韓首脳会談で、米国ブッシュ大統領に「this man(この人)」と表現され、一部の韓国人ネチズンの間で論議を呼んだ。
- 日韓ワールドカップ決勝戦・閉会式において、貴賓席着座の際に金大中が後に続く天皇に進路を譲らず、皇后と共に自分の後ろを通らせたことに対し、非礼であるとして一部の日本人から非難の声が上がった。[1]また、開会式でも「FIFAワールドカップ・コリア」と言い間違え、単独開催宣言かと揶揄された。
- 全斗煥以降、韓国大統領の来日のたびに繰り返されてきた日本への過去の歴史への賠償要求発言を行わなかった。
[編集] 外部リンク
- 金大中図書館(韓国語・英語)
カテゴリ: 韓国の大統領 | ノーベル平和賞受賞者 | 1925年生