金剛山電気鉄道
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金剛山電気鉄道(こんごうさんでんきてつどう)は、日本施政時代の朝鮮で運行されていた電気鉄道路線。現在、路線跡は軍事境界線で南北に分断されている。
総延長は100kmを越すもので、当時の日本では飯田線(元、豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道・伊那電気鉄道)・東武鉄道・近畿日本鉄道(元、大阪電気軌道・参宮急行電鉄→関西急行鉄道)など少数しか例が無かったことからしても、長距離運転の電車鉄道であった。
[編集] 概要
現在朝鮮民主主義人民共和国統治下の金剛山は、観光地として有望な場所であったにもかかわらず、交通手段が極めて貧弱であった。そのような中、皇居二重橋の設計者で日本や台湾、朝鮮での鉄道建設工事を請け負ってきた久米民之助が、1918年に金剛山周辺を踏査した。久米は東側が急で西側がゆるやかな朝鮮半島の地形に着目し、金剛山の北側を流れ、漢江に合流して黄海へと注ぐ化川河の水を、トンネルで日本海側に導くことによって水力発電を行い、その電力で京元線の鉄原から金剛山の麓まで電気鉄道を建設しようという計画を立てた。そして事業の賛同者を募り、久米民之助を中心として1919年に金剛山電気鉄道株式会社が設立された。
1920年にまず水力発電用のトンネル工事に着手、そして1921年には鉄道本体の工事が起工された。会社設立がちょうど第一次世界大戦後の不況期にぶつかり経営に苦心したが、1923年には鉄道の第一期工事が完成し、水力発電所も無事に完成したが、このときは関東大震災の影響で電車用の電動発電機が納入ができず、結局、南満州鉄道から借りた蒸気機関車と客車で、1924年8月1日に鉄原~金化間28.8kmの運行を開始し、同年の10月には直流1500Vで電化された。
そして1931年7月1日、鉄原~内金剛間全線116.6kmが開業した。開業後は5月から10月にかけての観光シーズンの日・祝日前には朝鮮総督府鉄道からの直通夜行列車も設定されるなど活況を収め、東海北部線の開通とも相まって、金剛山は一大観光地へと発展した。金剛山電気鉄道も観光コースの整備を行ったり直営の観光バスを運行したりするなど金剛山観光の振興に努めた。また末輝里から金剛山を越える鉄道を延伸させ、東海北部線に接続する計画もあったが果たせなかった。
金剛山電気鉄道は設立の経緯でもわかるように、有望な電力開発の見込みがあったために鉄道を作る計画が立てられた。そのために鉄道業とともに電力業も兼営しており、鉄道よりも電力で挙げる収益の方が大きかった。やがて戦時体制の強化の中、電力統制の方針によって朝鮮半島内の電力会社の統合が進められ、1942年1月1日、金剛山電気鉄道株式会社は京城電気に合併されることとなった。その後金剛山電気鉄道は京城電気の金剛山電鉄線へと経営主体が変わった。そして大東亜戦争(日中戦争・太平洋戦争)の影響で、1944年には昌道~内金剛間49kmが不要不急路線として廃止され、終戦後の朝鮮戦争により南北に運行路線が分断された上で設備も破壊され、時期不明で消滅した。
現在、平壌の鉄道事跡館に金剛山電気鉄道の電車が、金日成が乗車した車両ということで展示されている。
金剛山電気鉄道は金剛山観光客の輸送を目的として建設された鉄道なので、観光シーズンである5月~10月とオフシーズンである11月~4月とでダイヤの改正を行うのが恒例となっていた。年によって多少の変遷はあったが、オフシーズンは鉄原~内金剛間には3往復の電車運行であったものを、観光シーズンには1往復増発する形を取ることが多かった。鉄原~内金剛間運行のうち1往復には、二等車も三等車のほかに連結されていた。他には鉄原~金化、鉄原~昌道間の区間電車もそれぞれ1往復程度あった。全線の所要時間はおよそ4時間~5時間だった。
また金剛山電気鉄道は電気機関車を所有しておらず、貨車の牽引は電車が行っていた。
[編集] 路線データ
1934年現在
- 路線距離:鉄原~内金剛116.6km
- 複線区間:なし
- 電化区間:全線(直流1500V)
[編集] 主要駅
鉄原 - 東鉄原 - 金化 - 金城 - 昌道 - 末輝里 - 内金剛
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