金ヶ崎の戦い
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金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)は戦国時代の合戦のうちのひとつ。
金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)とも呼ばれる。
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[編集] 進軍
1570年4月越前国の朝倉義景領に、数万の大軍をもって侵攻した織田信長・徳川家康連合軍は、朝倉氏の城を次々と落城させ、金ヶ崎城の朝倉景恒をも下す。もはや朝倉本拠一乗谷城は目前であった。
[編集] 裏切り
だが盟友北近江国の浅井長政が突然裏切り、織田・徳川軍は越前と北近江からの挟撃という大変な危機にみまわれた。
(お市の方が、両端を紐で結んだ小豆袋を信長に送り、長政の裏切りを知らせたと言うのは俗説のようだ)
[編集] しんがり
ここでしんがりに名乗りをあげたのが、木下秀吉である。信長の命により徳川家康や明智光秀も秀吉と共に戦っている。わずかな手勢に鉄砲を撃たせて朝倉勢の足を一時的に止めつつゆっくり退却し、信長が逃げる時間を稼ぐという死と隣り合わせの危険な戦闘であった。木下隊のしんがりとも言える第一備えの大将は弟の木下秀長が務め、その下に蜂須賀正勝、前野長康ら経験豊富な猛将がついた。
(ただし、しんがりとして残った武将の中では池田勝正の兵力が木下隊の兵力より格段に多く、地位も池田のほうが高いことから木下がしんがりの大将だったという点については疑問があるという説もある。)
[編集] 信長の行動
信長は近江豪族の朽木元綱の協力もあり、越前敦賀から朽木を越えて(朽木越え)、命からがら京へ逃げ延びた。
供はわずか十人程度であったという。
[編集] 秀吉のその後
秀吉隊らも死線を潜り抜けて、何とか京へたどり着いた。信長は秀吉の捨て身の貢献を称えて黄金数十枚を与えた。どちらかというと文治派と見られがちであった秀吉だが、この働きによって軍事的な勇名も一気に高まった。
[編集] 総論
信長が無事逃げ延びたのは秀吉らの命がけの戦いのおかげであったが、朝倉本隊・朝倉義景軍の追撃の動きが鈍かった事も大きな要因になったと言われている。