野球拳
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野球拳(やきゅうけん)とは、愛媛県松山市に伝わる郷土芸能、宴会芸である。本来は三味線と太鼓を伴奏に合わせて歌い踊り、じゃんけんで勝敗を決する遊戯であるが、テレビのバラエティ番組の影響で、じゃんけんで負けた相手の服を脱がせるゲームとして広く知られており、お色気ゲームとしての認識がより一般的である。
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[編集] 本家野球拳
[編集] 由来と歴史
大正13年(1924年)10月、伊予鉄道電気(後の伊予鉄道、以後伊予鉄と表記)野球部が高松市で高商クラブとの野球の試合を行なったが、0-6で敗れた。この試合後、旅館で行われた対戦相手との夜の懇親会における宴会芸で、昼の敵を取るべく披露した演技が野球拳の始まりである。当時伊予鉄野球部のマネージャーをしていた川柳作家の前田伍健(1889年 - 1960年)が、元禄花見踊りの曲をアレンジし即興で作詞・振付けをしたものであった。なおこの時はじゃんけんではなく宴会芸由来であったことから狐拳であったと言われている(1947年の伊予鉄忘年会でじゃんけんに改められた)。
昼の負けはともかく夜の勝負に勝った一行は揚々とこの踊りを松山に持ち帰り、松山の料亭での「残念会」(あくまでも、野球の試合では負けていた)の場で披露した。以後、宴会芸の定番となる。また伊予鉄野球部が遠征する度に野球拳が披露されており、普及の一助となっている。
1954年には野球拳の歌がレコード化されブームとなった。この時、他地区との間で本家争いが発生。伊予鉄野球部が方々で披露したことが一因であったが、黎明期に松山の料亭で撮影された野球拳の写真が決め手となり、野球拳の詞は前田伍健の著作物として認知されることになった。
前田は自身を宗家とする家元制度を取り入れ、本家野球拳の普及発展に尽力した。現在、和太鼓奏者の澤田剛年が四代目家元を務める。
その後、松山まつりでも取り入れられ、1970年から各団体の連が街を練り歩くようになった、松山市制百周年記念の1989年からはサンバ調の野球サンバも加わるようになった。又、1983年の松山春まつりから松山城で本家野球拳全国大会が行われている。
[編集] ルール
通常は3人一組による団体戦で行なわれる。
- 双方1名ずつが前へ出て対峙する。行司の「プレイボール!」の掛け声とともに競技開始。
- 三味線と太鼓の伴奏に合わせて歌い踊る。
- 歌の終盤で「アウト! セーフ!」のかけ声に合わせて、野球の塁審のジェスチャーをする。
- 「よよいのよい!」の掛け声に合わせてじゃんけんの手を出す。あいこの場合は決着がつくまで「よよいのよい!」のじゃんけんを繰り返す。
- じゃんけんの勝負が決したら、「へぼのけ、へぼのけ、おかわりこい」(伊予弁で「へぼ」は下手な奴を、「のけ」は「どけ」を意味する)のお囃子と共に負けた者は退場し、次の者に交替する。
- 2に戻り、一方の選手が全て敗れた時点で3アウトでゲームセットとなる。
[編集] お色気ゲームとしての野球拳
野球拳としては上述した松山本家の野球拳が本来の姿であるが、その後お座敷芸として全国的に広まり、昭和30年代には現在のようなじゃんけんで負けたら脱衣するルールが定着した。文化放送のラジオ番組で放送されたところ物議を醸し、以降放送自粛となった曰く付きの遊戯であった。1969年、日本テレビのバラエティ番組「コント55号の裏番組をぶっとばせ!」(後に「コント55号の野球ケン」という独立した番組も生まれる)で罰ゲーム的に紹介され、一層誤った認識が全国に広まってしまった。
これに比べ、郷土芸能である本家野球拳の知名度は未だに低く、単に「野球拳」と言えばお色気ゲームとしての意味に取られがちであった。
なお、この事態に陥ったことに対し、その張本人であるコント55号の萩本欽一は2005年に松山を訪問し、本家野球拳の四代目家元である澤田剛年に謝罪、「本家」の流儀の教えを受けたという(もともと、萩本自身当時のテレビ局側に「やらされた」こともあり、松山市の関係者に対し罪悪感があったようである)。