流儀
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流儀(りゅうぎ)
- 日本の芸能や武術などにおいて、ひとつの分野について他との技術、手法、心構え、表現の目的、表現にあたっての解釈などの差異を理由として形成された集団。またはその集団が奉ずる芸道に対する考えかた、取組みかたそのもの。流派とほぼ同義。本項で説明する。
- 1から転じて、あるものに対するその人なりのやりかたを比喩的に言う。
基本的に、流儀は芸道における家元制度によって形成されるものであるので、それが存在する分野などについてはこれらの項目を参照されたい。
流儀とは、一言でいえば、あるものをどう行うか(敵とどう戦うか、ある戯曲をどう演じるか)ということについて個人の一代の技能でなく、ある一定の技術論に基づく技術が、集団的、伝統的に共有されている技能共同体を指す。各流派の技術論の相違はなはだしく広く、分野ごとに多様であるが、たとえば能であれば、所縁曲の相違、使用する謡曲の相違、戯曲に対する解釈の相違、舞の調子や工夫の相違、装束の選びかたの相違などがあげられる。これからもわかるように、能ならば能という対象はどの流儀にも共通するのに対して、それにいかに演ずるかの技術が異なるところに流儀というものの源流があるといってよく、その点については芸術や技術的なすべての分野について洋の東西を問わず、こうした現象は見られるものであるが、例えば近代以降のクラシック音楽ならば「個人的な解釈の違い」となるべきところを、集団で、伝統としてある程度、固定化して引継いでゆくところに流儀というものの特異性があるといっていい。
制度としての流儀は、基本的に二つの要素によって成り立っている。一はその芸系の同一性であり、一はこれを実質的に保存し受継いでゆくための集団としての存在である。そして、前者の技芸的側面と、後者の制度的側面をともに管理し、その永続を保障するべき機関として家元というものが存在する。ゆえに流儀という制度には家元もしくはそれに類する存在(たとえば職分会等の機関)が絶対に必要であり家元制度を抜きにして流儀を語ることは不可能である。
ある分野について傑出した新しい技術をあみ出したものは、だれでも自分が家元となって流儀を創設することができるが、実際にはこうした行動が比較的容易である分野とそうではない分野がある。たとえば能のシテ方に梅若流が設立されたときには、ワキ方や囃子方が旧来のシテ方五流に同調して共演を拒否し、実質上演能不能の状態に陥ったために、最終的に梅若流の分派行動は失敗におわった。また流儀制度の経済的根幹である素人弟子の絶対数が少ない分野では、分派行動を起こしても経済的に立ちゆかないことが多い。逆に言えば、ほかの分野との共演が必要でなく、素人弟子の数が多い分野では新流創設が容易であり、実際に日本舞踊や華道においてはほぼ無数に流儀があると言っても過言ではない。
なお流儀内に、さらに芸の相違によって小グループができる場合にはこれを「派」と呼ぶ。派がどの程度の位置を占めるか(たとえば免状の発行権を持つか否か)はそれぞれの分野によって千差万別であるといっていい。
[編集] フィクション等
- 潮流の王者(パット・コンロイ著・早川書房刊- 映画邦題:サウス・キャロライナ 愛と追憶の彼方)(ニック・ノルティ扮する主人公トーマス・ウィンゴの姉であり、何度も自殺未遂を起こしてNYの精神病院に入院中のサヴァナ・ウィンゴが書いた「Southern Way」(南部の流儀))