野口遵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
野口 遵(のぐち したがう、1873年 - 1944年)は、日本の実業家である。日本窒素肥料(現・チッソ)を中核とする日窒コンツェルンを一代で築いた。「電気化学工業の父」や「朝鮮半島の事業王」などと称された。
朝鮮半島進出後の野口遵は政商であった。朝鮮総督府の手厚い庇護の下、鴨緑江水系に赴戦江発電所など大規模な水力発電所をいくつも建設し、咸鏡南道興南(現・咸興市の一部)に巨大なコンビナートを造成した。さらに、日本軍の進出とともに満州、海南島にまで進出した。
[編集] 履歴
- 1873年 7月26日 金沢の貧しい士族の家に生まれた。
- 1896年 帝国大学工科大学電気工学科(現・東京大学工学部電気工学科)を卒業した。
- 1898年 シーメンス東京支社に入った。
- 1903年 仙台で日本初のカーバイド製造事業を始めた。
- 1906年 曽木電気を設立し、鹿児島県の大口に水力発電所を開いた。
- 1907年 日本カーバイド商会を設立し、熊本県の水俣でカーバイドの製造を始めた。
- 1908年 曽木電気と日本カーバイド商会を合併して日本窒素肥料を設立した。
- 1919年 広島市に移住、広島電灯を設立。中国山地水系の電源開発を進める。また東洋コルク工業(マツダの前身)などの支援や福屋デパート創業にも参画した。
- 1921年 イタリアのカザレー(Luigi Casale)博士よりアンモニアの新しい製造方法(カザレー法)の特許を購入した。
- 1923年 宮崎県の延岡で、カザレー法によるアンモニア製造を開始した。カザレー法の実用化として世界初。
- 1924年 日本窒素肥料の朝鮮半島への進出を決定した。
- 1926年 朝鮮水力電気(朝鮮水電)と朝鮮窒素肥料の2社を設立した。
- 1929年 日本ベンベルグ絹糸(現・旭化成)を設立した。
- 1932年 京城府本町(現・ソウル特別市中区明洞)に半島ホテル(現・ホテルロッテ)を開いた。
- 1940年 京城で脳溢血に倒れ、実業界から引退した。
- 1941年 私財を投じて野口研究所と朝鮮奨学会を設立した。
- 1942年 勲一等瑞宝章を受けた。
- 1944年 1月15日 没。