足利義明
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足利 義明(あしかが よしあき、長享元年(1487年) - 天文7年10月7日(1538年10月29日))は足利政氏の子で足利高基の弟。後に小弓公方を自称。
はやくから出家し、鶴岡八幡宮若宮別当(雪下殿)空然として僧籍にあった。父と兄が対立すると、下野に移って宗済と改名し、その後還俗して名を足利義明と改め、上総国真里谷城主の真里谷氏の支援のもと、下総国小弓城を攻撃して千葉氏家臣の原胤隆・原虎胤・高城胤吉らを破って同城を占拠する。その後、「小弓公方」を自称して古河公方と対立した。後に真里谷氏の内紛に介入して逆に同氏を傘下に収めて里見氏と同盟を組む。
1538年、義明は大軍を起こして下総国国府台に出陣し、北条氏綱と決戦を行った(第一次国府台合戦)。当初は義明方が優勢だったが、氏綱の反攻に遭って戦死した。
義明の死で、小弓公方は滅亡したが、その子・足利頼淳(頼純)は初めは里見義堯・義弘(義弘の正室青岳尼は義明の娘)、後に豊臣秀吉の庇護を受けて存続することができた。