趙治勲
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趙治勲 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 조치훈 |
漢字: | 趙治勳 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
ちょう ちくん |
片仮名: (現地語読み仮名): |
チョ・チフン |
ラテン文字転写: | Jo Jihun |
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趙 治勲(ちょう ちくん、조치훈 韓国語の発音では、チョ・チフン 1956年6月20日 - )は、囲碁のプロ棋士。韓国釜山広域市出身。日本棋院所属。木谷実九段門下。実兄に趙祥衍五段。本因坊戦10連覇の偉業により、特別に現役のうちから「25世本因坊」の称号を名乗ることを許されている。門下に金秀俊七段、松本武久六段、鶴山淳志六段
棋風は徹底的に実利を稼ぎ、その後相手の模様に入りシノギ勝負に持ち込む。極めて勝負にこだわる性格で、常に最強の手を打とうとし、非常な長考派として知られるが、同時に早碁の名手でもある。 棋道賞「最優秀棋士賞」9回、秀哉賞9回。1996年に千葉市民栄誉賞。
目次 |
[編集] 履歴
- 1962年 8月1日(6歳)、来日。木谷実門下に入門。
- 1968年 11歳の時、プロ試験合格。入段。(最年少記録)。同年二段に昇段。
- 1969年 三段に昇段。
- 1970年 四段に昇段。
- 1971年 五段に昇段。
- 1973年 16歳、新鋭トーナメント戦に優勝し、初タイトル。大手合33連勝。六段に昇段。
- 1974年 18歳、木谷道場から独立
- 1975年 プロ十傑戦で優勝し初の公式タイトル(当時最年少記録)。七段に昇段。12月、木谷実死去。
- 1976年 名人リーグ入り
- 1977年 結婚、のちに一男一女をもうける
- 1978年 八段に昇段。
- 1979年 本因坊リーグ入り
- 1980年 24歳、大竹英雄を破り名人位を獲得。以後五連覇、初の名誉名人の資格を得る。韓国に帰国し文化勲章(銀冠)を受章
- 1981年 4月九段に昇段。武宮正樹本因坊を破り史上四人目の名人本因坊となる
- 1982年 鶴聖、十段、本因坊、名人の四冠を制す。
- 1983年 27歳、大三冠達成。棋聖位3連覇。千葉に移住
- 1986年 1月6日、交通事故で全治3ヶ月の重傷を負う。車椅子での対局、小林光一に棋聖位を奪われ無冠になるが8月に大竹英雄から碁聖を奪取
- 1987年 小林光一を破り天元位を獲得、史上初のグランドスラムを達成。
- 1988年 十段奪取、天元防衛。
- 1989年 本因坊位を奪還。以後十連覇し、25世本因坊の資格を得る。十段防衛。
- 1991年 決勝で中国の銭宇平九段に不戦勝し、世界囲碁選手権富士通杯優勝。この頃より内弟子をとりはじめる
- 1997年 11年ぶりに名人奪取(以降、4連覇)、二度目の大三冠達成。翌年保持。
- 2003年 韓国の朴永訓九段に勝利し三星火災杯・世界オープン戦優勝。
- 2005年 48歳7カ月(史上最年少)、入段から36年9カ月(史上最速)で史上3人目の通算1200勝を達成。同年に4連覇中の王立誠九段から十段位を奪還。
- 2006年 対戦成績3勝9敗と分の悪い山下敬吾棋聖を相手に十段位を防衛しタイトル獲得数を69に更新
[編集] タイトル歴
国内棋戦
- 棋聖 8期 (1983 1984 1985 1994 1996 1997 1998 1999)
- 名人 9期 (1980 1981 1982 1983 1984 1996 1997 1998 1999)
- 本因坊 12期 (1981 1982 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998)
- 十段 5期 (1982 1988 1989 2005 2006)
- 天元 2期 (1987 1988)
- 王座 3期 (1976 1994 2001)
- 碁聖 2期 (1979 1986)
- NHK杯テレビ囲碁トーナメント 優勝3 (1983 1992 1996)
- NECカップ囲碁トーナメント戦 優勝4 (1984 2000 2001)
- 竜星戦 優勝2 (1991 1993)
- 早碁選手権 優勝7 (1986 1990 1991 1992 1996 2001 2002)
- 新鋭トーナメント 優勝3 (1973 1974 1976)
- 鶴聖 優勝2 (1982 1985)
- (優勝1回) 朝日八強争覇戦(1976)、秀哉杯、JT杯(1996)、プロ十傑戦(1975)、JALスーパー早碁戦(2004)、阿含桐山杯(2002)
国際棋戦
- 世界囲碁選手権富士通杯 1 (1991)
- 三星火災杯・世界オープン戦 1 (2003)
[編集] 棋道賞
- 第05回 1971年 新人賞
- 第06回 1972年 殊勲賞
- 第08回 1974年 殊勲賞
- 第09回 1975年 最多勝利賞(39勝16敗) 殊勲賞
- 第10回 1976年 最多勝利賞(46勝18敗) 技能賞
- 第13回 1979年 最多勝利賞(39勝13敗) 連勝賞(12) 殊勲賞
- 第14回 1980年 最優秀棋士賞 最多勝利賞(38勝19敗無1)
- 第15回 1981年 最優秀棋士賞
- 第16回 1982年 最優秀棋士賞
- 第18回 1984年 最優秀棋士賞
- 第21回 1987年 最多勝利賞(40勝23敗)
- 第28回 1994年 最優秀棋士賞
- 第30回 1996年 最優秀棋士賞
- 第31回 1997年 最優秀棋士賞
- 第32回 1998年 最優秀棋士賞
- 第33回 1999年 最優秀棋士賞
- 第37回 2003年 国際賞
- 第38回 2004年 特別賞
[編集] 記録
- 最年少入段 11歳9ヶ月
- 本因坊連覇 10期
- グランドスラム達成 (趙治勲のみ)
- 大三冠 3回(趙治勲のみ)
- 最多通算タイトル獲得 69回(1位)
- 通算600勝達成 30歳2ヶ月(2位)
- 通算700勝達成 33歳1ヶ月(史上最速) (1989年8月17日達成)
- 通算1000勝達成 史上6人目 43歳1ヶ月(史上最年少) 入段から31年4ヶ月(史上最速) 1999年8月12日達成
- 通算1200勝達成 史上3人目 48歳7カ月(史上最年少) 入段から36年9カ月(史上最速)
- NECカップ囲碁トーナメント戦 全期出場
[編集] 人柄・エピソード
- 4歳で碁を覚えわずか1年余りでアマチュア高段者並に。
- 1962年(当時6歳)、林海峰(当時六段)との5子局で勝利。
- 対局中、髪の毛をかきむしる癖がある。
- 対局中マッチ棒をポキポキ折りながら考える癖があった。
- 100局以上にも及ぶ小林光一とは戦績が五分でありながらタイトル戦では多く勝ち越している。
- 対局中、自らの打った悪手に腹を立て、脇息を投げ飛ばしてしまったことがある。
- タイトルマッチ七番勝負での戦績は29勝6敗。3連敗4連勝も3回達成している「七番勝負の鬼」。
- 碁に対する執念はよく知られているが、一方で大盤解説、TVなどで見せる軽妙なトークにも定評がある。
[編集] 語録
- 「碁に負けると僕には絶望しかない」
- 「厚いというのは地が多いことだ」
- 「僕は五段になるために日本に来たんじゃありません」(15歳で五段に昇段し、「おめでとう」と言われて)
- 「碁が弱くなっちゃいけない。麻酔だけは打たないでくれ。このまま手術をしてくれ!」(1986年 正月、交通事故で重症を負った後。結局麻酔を打たずに手術を受けた。)
- 「後は女装して女流のタイトルを狙いますか」(グランドスラム達成後の就位式にて)
- 「私が日本の碁に肩入れし、中国・韓国に負けてほしくないと考えるのは、日本のプレーヤーだから当然のことです。他に何の理由もいりません」
- 「坂田先生の時代とはタイトルの数が違うので、全く比較にはならない。しかし数の上だけでも尊敬する坂田先生を抜いたことは、素直に嬉しく思います」(坂田栄男の持つタイトル獲得記録64を抜いた時に)
[編集] 主な著作
- 『差をつけるヨセ上達法 (日本棋院新書―昇段編)』 日本棋院 1987年
- 『よく分かるヨセの基本 (日本棋院新書―進級編)』 日本棋院 1994年
- 『強くなるヨセの知識 (日本棋院新書―入段編)』 日本棋院 1994年
- 『おぼえたての碁―はじめたばかりの碁がたちまち強くなる』 筑摩書房 1995年
- 『基本死活事典(上)』 日本棋院 1996年
- 『基本死活事典(下)』 日本棋院 1996年
- 『カベ攻めの極意―モヨウをも攻めるべきと、発想の転換をうながす (新・木谷道場入門5)』河出書房新社 1996年
- 『シノギの真髄―石は死ぬものではないと、生きる術を徹底探求 (新・木谷道場入門7)』河出書房新社 1997年
- 『地と模様を超えるもの-趙治勲の囲碁世界-』 河出書房新社 1999年
- 『ツケの技法 最強囲碁塾』 河出書房新社 2001年
- 『キリの技法 最強囲碁塾』 河出書房新社 2002年
- 『キカシの哲学 最強囲碁塾』 河出書房新社 2003年
- 『ひと目の手筋―やさしい問題を反復練習 (MYCOM囲碁文庫)』 毎日コミュニケーションズ 2003年
- 『ひと目の詰碁―やさしい問題を反復練習 (MYCOM囲碁文庫)』 毎日コミュニケーションズ 2003年
- 『趙治勲流(1) 地取り戦法―地を取ることは厚い (MYCOM囲碁ブックス)』 毎日コミュニケーションズ 2005年