豊後大蔵氏
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豊後大蔵(ぶんごおおくら)氏は、慈眼山周辺を拠点に平安時代後期、11世紀終わりから1432年(永享4年)まで、400年弱の間、鬼蔵永弘(835)から16代永包(1444)まで590年余り大分県日田市を支配していた地方の土豪である。 豊後大蔵氏は、古代に存在していたといわれる日下部氏に代わって日田郡司になったとされる。その後、日田での地位を確立していった大蔵氏は、中央の貴族に従属して、勢力を確固としたものとしていった。また、大蔵氏は、大原八幡宮や永興寺(ようこうじ)、岳林寺(がくりんじ)を造営し華やかな文化を形成していった。 その後、大きな力を保持していたと思われる大蔵氏であったが、文安元年(1444)身内の家督争いによって滅亡し大友氏より養子を向かえて大友系で日田氏を再興する。その大友日田氏も、1530年(享禄3年)に滅亡した。
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[編集] 大蔵氏の出自と始祖鬼蔵永弘
豊後の大蔵氏の出自は定かではなく資料も現存しているものは少ないため、はっきりとした事は不明であるが、承和年間に任期を完了したにもかかわらずに、日田に居座った豊後国司中井王の子孫であるという中井王子孫説が通説となっている。他に、ミケイリノミコト末裔説、アチノオミ子孫説等があるが、いづれも信憑性に欠けているといわれる。
郷土資料『豊西記』では仁寿3年(835)~延喜10年(910)まで鬼蔵(大蔵)永弘が日田郡司を勤め日田大蔵氏の始祖となったとしているが、二百数十歳生きた等の逸話を残しているため伝説上のみの人物である可能性もある。それから、・・・永明―永興と約150年の空白の時代を経て大蔵永季が登場することになっている。
[編集] 初代大蔵永季
伝説の域を出て歴史に現れてくるのは大蔵永季(おおくらながすえ 1056-1104?)という人物からである。大蔵永季は本名を日田鬼大夫大蔵朝臣永季と言い、「日田どん」とも呼ばれる相撲の名手であり、京の相撲の節会に出場した記録が残っている。特に出雲小冠者との取り組みは伝説となっている。後、相撲の節会に10余回上洛し勝ち星を挙げるものの長治元年(1104)京からの帰りの道中、風邪をひき大肥庄(現日田市大肥町・大鶴町あたりか)にて没したといわれる。永季を祀る日田神社は角界の崇敬を受け相撲の神様として知られる。
[編集] 系譜
歴代当主に関しても諸説があり、郷土資料の記述では名に違いがあるなどの不鮮明な部分が多い。正しい系譜は不明のため以下は一部の郷土資料を基にした系譜を表示する。
- 参考文献:長順一郎著『総合村落史考―日田の歴史研究―(総合出版社 歴研)』郷土資料より『豊後国日田郡司職次第』及び『日田記』
※以下は参考に宇佐末裔説と中井王子孫説を系譜で表した。 宇佐末裔説 中井王子孫説 ┃ ┃ 宇佐国造 天武天皇 ┃ ┃ 船守 ┃ ┃ 乙雄 ┃ ┃ 弟勝 高市皇子 ┃ ┣━━━━┓ 年雄 鈴鹿王 長屋王 ┃ ┃ 永則 中井王 ┃ ┃ 鬼蔵永弘 ※以下、数字は歴代当主を表す。 始祖鬼蔵永弘 ┃ 永宣 ┃ 永種 ┃ 永将 ┃ 永利 ┃ 永明 ┃ 永興 ┃ 1大蔵永季 ┣━━━┳━━━┳━━━┓ 宗季 2秀平 溝口季真 3永平 ┃ ┃ ┃ 季盛 溝口高家 ┃ ┏━━━┳━━━┫ 永隆 5永秀 4永宗 ┣━━━┓ 永俊 6永綱 ┃ 7永信 ┃ 8永基 ┃ 9永資 ┏━━━┫ 10永貞 永徳 ┃ ┣━━━━━┓ 11永敏 永敏 永澄 ┏━━━━┳━━━┫ ┣━━━┓ 永友 14永息 12栓永 15永純 永好 ┃ ┃ ┣━━━━━━┓ 大友日田氏 財津永清 13永雅 16永包 永包姉━1大友永世━2親武 ┃ ┃ 永連 3親有━4親賢 ┃ ┏━━━┫ 永房 5親久 6親將 ┃ ┃ ┣━━━┓ 永由 親將 塩房 親永 ┃ ┃ 親永 親俊 ┃ 永胤 ┃ 永邦 ┃ 永忠 ┃ 永継
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