西宮神社
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西宮神社 | |
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所在地 | 兵庫県西宮市社家町1番17号 |
位置 | -- |
主祭神 | 西宮大神(蛭子命) |
社格等 | 県社・別表神社 |
創建 | -- |
本殿の様式 | -- |
例祭 | 9月22日 |
主な神事 | 十日戎 おこしや祭 誓文祭 |
西宮神社(にしのみやじんじゃ)は、兵庫県西宮市にある神社である。日本に約3500社ある蛭子神系の戎神社の総本社である。地元では「西宮のえべっさん」と呼ばれる。
目次 |
[編集] 祭神
第一殿に「西宮大神」として蛭子命を祀り主祭神とする。第二殿に天照大神と大国主大神、第三殿に速須佐之男大神を祀る。
祭神の蛭子命はオノゴロ島でイザナギ(伊耶那岐命)とイザナミ(伊耶那美命)との間に生まれた最初の神である。しかし不具であったため葦の舟に入れて流され、子の数には数えられなかった。ここまでは記紀神話に書かれている内容であり、その後の蛭子命がどうなったかは書かれていない。当社の社伝では、蛭子命は西宮に漂着し、「夷三郎殿」と称されて海を司る神として祀られたという。
[編集] 歴史
創建時期は不明であるが、平安時代には当地で既に篤く信仰されていたことが記録に残っている。
地元の伝承では鳴尾(西宮市甲子園付近)の漁師が西宮で網に掛かったえびす像を海へ戻し再び和田岬沖(神戸市兵庫区)で網に掛かったので因縁を感じ祀っていたところある夜の夢にえびす神が現われ、もっと西の方によい宮地があるというお告げがあり、村人相談の上神輿に乗せ運んだ所が現在の社地であるとされている。西のよい宮地であるところから西宮という地名が興ったという。
移動途中のえびす様が居眠りをしたという御輿屋跡地が本町にありそれに因んだ「おこしや祭」が毎年6月14日に行われる。又平安時代には神戸の和田岬へも船で神幸するまつりが旧暦8月22日に行われていたが戦国時代から中断、明治よりその日に因み9月22日が例祭日となる。船渡御は2000年から再興されている。
長らく広田神社の摂社であった。広田神社との関係から、神祇伯の白川伯王家との関係も深く、たびたびその参詣を受けていた。
神人として人形繰りの芸能集団「傀儡師」が境内の北隣に居住しており、全国を巡回し、えびす神の人形繰りを通してその神徳を説いたことにより、えびす信仰が全国に広まった。境内に祀られる百太夫神は傀儡師の神である。中世に商業機構が発展すると、海・漁業の神としてだけでなく、商売の神としても信仰されるようになった。
江戸時代には、徳川家綱の寄進により本殿を再建し、また、全国に頒布していたえびす神の神像札の版権を幕府から得、隆盛した。
[編集] 施設
- 火産霊神社 - 火産霊神
- 百太夫神社 - 百太夫神
- 六甲山神社 - 菊理姫神
- 大国主西神社 - 大己貴命、少名彦命(延喜式内社)
- 神明神社 - 豊受比女神、稲荷神
- 松尾神社 - 大山咋神、住吉三前大神、猿田彦命
- 市杵島神社 - 市杵島神
- 宇賀魂神社 - 宇賀魂神
- 庭津火神社 - 奥津彦神、奥津比女神
- 沖恵美酒神社 - 沖恵美酒大神
- 南宮神社 - 豊玉姫神、市杵島姫神、大山咋神、葉山姫神(廣田神社摂社の古社)
- 児社 - 児尊(南宮神社末社)
- 拝殿
- 神楽殿
- 社務所
- 西宮神社会館
- 六英堂
- 表大門 - 桃山時代末期、四脚門、単層切妻造、本瓦葺、国指定重要文化財
- 南門
- 大練塀 - 室町時代初期、現存最古の築地塀、日本三大塀、国指定重要文化財
- 備考:境内2.5haは「西宮神社林」の名称で景観樹林保護地区に指定されている
[編集] 十日えびす
毎年1月10日前後の3日間で行われる十日えびす(戎)では、開門神事福男選び、大マグロの奉納、有馬温泉献湯式などの行事とともに、たくさんの屋台が軒を連ね、開催三日間で百万人を超える参拝者で賑わう。
[編集] 日程
[編集] 福男選び
西宮神社にて行われるイベントの一つ。なお、同じ「えべっさん」ではあるが今宮戎神社の福娘(その選考会は芸能界入りのオーディションとほぼ同義語と揶揄される)と関係はない。
[編集] 由来
正式には「開門神事福男選び」と呼ばれる。
西宮神社では古くから「居篭り」と呼ばれる、"えべっさん"を神社に迎え入れるために神社のすべての門を閉め、氏子が家から外出してはならない習慣がある。すべての門は午前0時前には閉じられ、居篭りの儀式は午前4時ごろから執り行われ午前6時ごろに終わり、それと同時に門が開かれる。その居篭りつまり謹慎状態の状態が解かれた後、氏子たちが一斉に家から神社まで駆け抜ける風習がルーツとされる。神社側の記録によれば、昭和15年以前のはっきりとした記録は定かでなく、「十日戎開門神事考」等の筆者である荒川裕紀氏ら郷土史研究家等が残している資料によっても大正時代以前の記録はほとんど分からない。また、なぜ昭和15年から記録が残っているかについては、当時の新聞の戦意高揚記事とかけ合わせて、その年の一番福に褒美としてお守りを授けたからではないかとしている。現在の用語になったのは昭和に入ってからのようで明治時代以前は「居篭り祭り」と呼ばれていたことが郷土史研究家らは指摘している。十日戎の原型となるべき祭りであることは確かである。
[編集] 本番当日
当日は未明から多数の人が神社東側にある表大門の前に集合し、午前6時の開門(大太鼓の合図)とともに約220メートル先の本殿を目指して駆け出す。そして3着までにゴールした人間が、その年の福男となる。尚、一般に福男と言われているが、老若男女いずれの人も走ることが出来る。しかし、女性の一番福は未だに出現していない。参加者は毎年2000人程に及ぶ。
コースには3箇所のカーブ(南宮神社前、社務所手前、拝殿手前)と拝殿に駆け上がる際のスロープ、途中の鳥居、拝殿手前の楠木などが障害物のように立ちはだかり、毎年のテレビ取材ではこの4箇所を中心に大小のカメラを設置(平成18年日本テレビ系列17台等)している。この時期の石畳は冷え込みで滑りやすくなっており、その上を猛スピードで駆け抜けるので制御がままならず、スピードがつきすぎカーブを曲がりきれず勢い余って転倒したり、最後の坂で足が絡まって転倒する者もおり、制御がうまく出来た者が一番福~三番福の栄誉を獲得できるといえる。
[編集] トラブル
前述の「十日戎開門神事考」などの書籍によると昭和21年から数年間は、前年に神社が空襲で焼失したため中断。昭和41年と昭和42年は、昭和40年に場所取りを巡って乱闘が発生したことに伴い自粛しているとある。しかし、これまでで一番大きなトラブルは平成16年の「一番福返上騒動」である。
この年、一番福になった某市消防局勤務の男性は過去2度の参加歴があり、いずれもあと一歩のところで一番福を取り損ねていた。特に2度目の参加だった平成15年には、スロープを上がりきったところで転倒するというなんとも悔しい結果だっただけに、この年は「3度目の正直」を期するために1月6日から表大門前で泊り込み、また同僚が「なんとしてもこの男性に一番福を」と決起した。10日の本番は同僚の"助け"があまりにもうまく行き、この男性は見事一番福を得たが、この様子がテレビのニュースや当日の夕刊で報道された直後から「同僚に他の参加者を妨害させた」と他の参加者から批判され、また、ニュースを見た視聴者からも指摘されはじめ、勤務先の消防局などにも問い合わせの電話がくるようになった。報道写真からも妨害していたことははっきり分かっていたが、男性は当初インタビューで「確かに仲間らと一緒に走ったが、妨害行為は一切ない。ねたみの声でもあるのでしょう」と妨害はさせていないことを強調していた。
しかし、この男性に対し反感を覚えた者達によってインターネットでは開門時の数ある報道写真が改造されたものも含め多数貼られ、また、男性の勤務先である消防局の電話番号や同僚の氏名が不正に公開され、男性をからかったアスキーアートが作られた。挙句の果てには男性の懲戒免職を請求する者まで出現した。この騒動に次々と各サイトやblogが便乗し、果てはテレビのワイドショーまでが追従し騒動が拡大。精神的にたまりかねたこの男性は一番福を返上することとなり、男性と同僚合わせて計12人が勤務先より口頭で注意を受ける結果となった。これが契機となり、神社側は氏子や往年の参加者などとの協議を持ち、警察からの指導もあった結果平成17年事前の場所取りを禁止し、先頭の108人にスタート位置をくじで決める方式を取った。
トラブルが大きくなった背景には、福男選びが「神事・まつり」であることを完全に忘れ、単なる「イベント、かけっこ競争、スピード感のある"材料"」としか見ないマスコミによる数年来続く過剰な煽り、参加者軽視の強引な取材などがあったという指摘もある(外部リンク参照)。とあるUHF局はまるで競馬のレースの様に一番を当てさせるということを番組編成内で行ったり、ドキュメントタッチに仕上げるために閉じられた門の中を走らせる映像を撮ったりと地元住民からの反発をも招いているとされる。ただ、境内の中で取材をさせる一切は神社にゆだねられており無料で行ってもらえる宣伝の部分とマスコミが入ったために混乱が起きるという悪影響の部分の2つをはかりにかける必要が出てきているのではという指摘もある。
[編集] 福男になれば・・・
三番福までの商品は以下のとおり。
また開門前に待っている先着2000名には、開門神事参加証がもらえる。
[編集] 奉納マグロ
昭和45年から毎年始まっている大マグロの奉納は、近くの漁業組合によって行われ、非常にたくさんの人が小銭をマグロに貼り付けて参拝する。終了後は解体され、関係者により刺身などにして食べられる。
[編集] 広田神社との関連
西宮神社は、その成立において「南宮社」と呼ばれていたと言う記録がある。これは市内中部の、広田神社を本宮と見て、その南に成立する神社と捉えることができる。
おそらく平安時代中期まで、広田神社の出張社的扱いを受けていたものと考えられる。ちなみに広田神社の祭神は、天照大神である。また広田神社の西には越木岩神社があるが、ここは延喜式神明帳によると大主西神社と呼ばれ、以前は西宮神社の末社として管理されていたようだ。今も「北の戎」と呼ばれているようだが、本来はここでえびす大神が祀られていたのを、平地で海にも近い地理的に好条件な今の西宮神社の場所を本家として、お祀りしたことで、全国的にも有名になったという説もある。
ちなみに明治期には国家神道化する流れの中で官幣大社が広田社、県社が西宮社と位置づけられた。
阪神タイガースは、春季キャンプが始まる前に広田神社に参拝し、シーズン開幕前に西宮神社に参拝する。一説によれば、前者へは「武運長久」を、後者には「商売繁盛」を祈願していると言われる。
ちなみに大阪・今宮戎神社のすぐ北側にも「廣田神社」が在る。今宮社は西宮と比較されることを嫌うが、「今宮」の名称自体「今西宮」の転訛であろうし、廣田神社とペアで勧進されたことが推測される。
[編集] えびす総本社
西宮神社は日本のえびす信仰神社全国3500の総本社であるが、異議を唱える声も少なくない。えびす信仰は蛭子神の他に事代主神や少彦名神もあり、とりわけ事代主神系列のえびす社が全国では圧倒的に多いからである。
事代主神系えびす社の総本社は島根県の美保神社とされており、同社関連のホームページでも「全国えびす社の総本社」と銘打っている。しかしながら全国各地のえびす社の中では、本来蛭子神を主祭神としていたものを明治以降「蛭」の字を嫌って事代主神に主祭神を替えた事例もある。結局のところ、現在えびすが蛭子神なのか事代主神なのかを決着することは余り意味のないことであり、西宮神社も美保神社も共に全国えびす社の総本社とされている。
[編集] 祭事
例大祭は9月22日であり、現在では「西宮まつり」(9月21日から23日)という名で2000年よりより大きな範囲での祭りとなっている。特徴としては他にはない「海上船渡御」がある。これは、西宮神社にほど近い新西宮ヨットハーバーから神戸の和田岬までを船で巡航を行う渡御祭である。このベースとなるのは400年ほど前まで続いてきた渡御神事があった。歴史的には平安時代に西宮神社(当時の西宮大神宮)が大きくなることと同時に当時の権力者であった上皇や北面の武士、瀬戸内の支配者として活躍をし出した平氏の庇護を得るために平家の本拠地であった大輪田の泊の神様と蛭子大神との関連性を示した神事ではないかと言われている。ただ、織豊政権時の社領の没収によって祭り自体が中止に追い込まれたということが文献に残っている。
それから西宮は酒造りや流通で街が成長し社領の没収の後、豊臣秀頼から送られた表大門(開門神事に使われる門)が象徴として繁栄を極めるようになり一挙に「えびすの宮、西宮」の知名度が上がった。そのことと同時に当時の移動メディアの先駆けである傀儡(かいらい・くぐつ)師が淡路島、四国そして全国へとえびす総本社が西宮大神宮へと伝えるようになったことから全国的に行われてきたえびす信仰が統合されたことも見逃せない。彼らのえびす神札の普及のために踊っていた「えびす舞」が、後世淡路の人形浄瑠璃や文楽へと発展したことも見逃せない。