裴松之
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裴松之(はいしょうし 372年 - 451年)は、中国の東晋末・宋(南朝)初の政治家・歴史家。河東郡聞喜(山西省)の人。字は世期。裴珪の子。陳寿の『三国志』の「注」を付けた人物。また、魏に仕えた裴潜の6世の孫に当たるという。
[編集] 経歴
早熟で、8歳にして『論語』『毛詩』の内容に通じていたが、身なりはいつも簡素だった。
391年(太元16年)から東晋の諸官を歴任した後、416年、劉裕(武帝)の北伐に従い司州主簿として随行。その後国子博士に任じられる。
中書侍郎、司隷・冀州二州の大中正に転任。文帝に命じられて三国時代の歴史書『三国志』の「注」を作った。文帝は「これは不朽となるだろう」と松之をたたえた。また、『晋記』を著述したが散逸している。
その後も大中正や地方の太守を歴任し、最終的には国子博士・太中大夫を兼任した。
[編集] 『三国志』注について
『三国志』の「注」は著者である陳寿の文章の簡略すぎる部分を補うために、陳寿の使わなかった史料も含め、異同のあるものは全て載せるという方針で書かれた。
史料の良否はあまり気にせず取り入れている(「信用できない史料である」などとことわったりしながらも載せている)ため、事実性はともかく陳寿の文章に比べて読み物としては格段に面白くなっていると言える。そのため講釈師の話の種になり、そこから『三国志演義』の誕生につながってゆくことになる。
また、出典を明記しているため、同時代やその少し後の時代にどのような史料があったのか、内容も含めて知ることができるし、著者の立場や時代によって、どのように説や主張に食い違いがあるかを知ることもできる。当然ながら、同じ事件であっても魏側の記録と蜀漢、あるいは呉側の記録ではトーンが大きく違っている。さらに、同時代史料と魏の次代である西晋、さらにその後である東晋に成立した史料では、事件に対する受け止め方も変わってくる。そのため、史料としての価値は高い。
たとえば、魏の曹髦が殺された事件では、事件に西晋を建国した司馬氏がかかわっているため、陳寿は記述をぼかしている。裴松之は習鑿歯の『漢晋春秋』に記録された殺害の顛末が一番まとまった内容であるとして注の筆頭に引用し、続いて異説を挙げている。読者に史料の比較検討を促しているのである。また、裴松之は自説に反する文献も注に引用しているので、裴説の再検討もできるのである。
引用されている文献は、魏・呉・蜀漢の順に多い。ただし、本文の分量に対する割合では、魏・蜀漢・呉の順となる。陳寿に対しては敬意を以て接しており、また蜀漢の特に諸葛亮にも好意的な態度が目立つ。『三国志演義』で採用された蜀漢についてのエピソードは、多くを裴注に拠っている。しかし、後世盛んになった講談や三国志演義などの蜀漢正統論による創作では、陳寿への敬意は引き継がれなかった。
[編集] 関連項目
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