藤本英雄
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藤本 英雄(ふじもと ひでお、1918年5月10日 - 1997年4月26日)は。昭和初期から中期(1940年代-1950年代前半)のプロ野球選手・プロ野球監督。朝鮮釜山生まれ、山口県下関市彦島出身。1943年より「中上(なかがみ)」姓。
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[編集] 来歴・人物
旧制明治大学から1942年、東京巨人軍に入団。初年度に10勝すると2年目には34勝、防御率0.73で最多勝、最優秀防御率。この年の防御率0.73は現在も日本記録として残っている。1943年5月22日対名古屋戦(後楽園球場)でノーヒットノーラン達成。1944年は投手で3番を打ち、監督も兼任。人員不足の戦中にあってチームを支えた。
戦後1946年途中まで監督兼任。1947年に中日に移籍するが赤嶺旋風の煽りで翌1948年巨人に復帰。同年後半に肩を痛めて球威を落とすが、1949年スライダーをマスターして復活。ラビットボール導入でリーグ全体の投手成績が悪化する中、24勝をあげ防御率も1.94と安定した成績を残した。1950年6月28日の対西日本パイレーツ戦(青森球場)で日本プロ野球史上初の完全試合を達成。この試合の先発予定は多田文久三であったが、多田が食あたりで腹を壊したため藤本が急遽先発となったものだった。しかし、この試合はだれも新聞記者やカメラマンがいなかったため、達成時の写真がないというお粗末な結末となってしまった。1955年200勝を達成し同年引退。
1956年から1957年まで巨人コーチ・2軍監督。その後大和証券の監督に就任。読売新聞ロサンゼルス支局駐在員も務めた。1976年野球殿堂入り。1997年4月26日、心筋梗塞のため死去。享年78。
[編集] タイトル・表彰・記録
- 最多勝 1回(1943)
- 最高勝率 3回(1943、1946、1949)
- 最優秀防御率 3回(1943、1946、1949)
- 最多奪三振 2回(1943~1944)
- 沢村賞 1回(1949)
- ベストナイン 1回(1949)
- 完全試合(1950.6.28)
- ノーヒットノーラン(1943.5.22)
- シーズン最優秀防御率 0.73(1943 日本記録)
- シーズン最多完封勝利 19(1943 日本記録)
- 6試合連続完封勝利 (1943.8.2~9.12 日本記録)
- 62イニング連続無失点(1943.8.1~9.15)
[編集] 通算成績
- 367試合登板 200勝87敗 1177奪三振 防御率1.90(歴代1位)
通算勝率.697(2000投球回以上で歴代1位)
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム本塁打 | チーム打率 | チーム防御率 | 年齢 | 球団 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1944年 | 昭和19年 | 2位 | 35 | 19 | 14 | 2 | .576 | 8 | 5 | .236 | 1.92 | 26歳 | 巨人 |
1946年 | 昭和21年 | 2位 | 105 | 64 | 39 | 2 | .621 | 1 | 24 | .257 | 2.59 | 28歳 |
- 1946年は6月10日限りで中島治康と交代
- 監督通算成績 60試合 34勝23敗3分 勝率.596
[編集] 関連項目
- ※カッコ内は監督在任期間。
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