藤本四八
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藤本四八(ふじもとしはち 1911年(明治44年)7月25日 - 2006年8月19日)は、日本の写真家。古美術を撮影した写真作品で知られる。
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[編集] 略歴
長野県飯田市松尾に生まれる。美術雑誌・美術本編集者の藤本韶三は兄である。
1927年(昭和2年)旧制飯田商業学校(現在の長野県飯田長姫高等学校)を中退し家業を手伝いながら画家を志す。1931年(昭和6年)に東京へ行き金丸重嶺の金鈴社フォトスタジオに入社。1934年に日本デザイン社に転職。
1937年(昭和12年)に名取洋之助が主催する日本工房に入り、『NIPPON』誌上で土門拳らと共に活動する。
1939年(昭和14年)に従軍カメラマンとなり、中国戦線、フィリピン、インドシナを転戦したのち1940年(昭和15年)に帰国。国際報道工芸株式会社(日本工房の後身)の写真部長となる。
1941年(昭和16年)兄の韶三、美術史家・美術評論家の北川桃雄と共に唐招提寺、薬師寺に赴き仏像や建築を撮影した。戦火による万が一の焼失を考えたという。これらの写真は戦時中の1944年(昭和19年)には「仏像写真展」として発表。1945年(昭和20年)に美術出版社から出版された。
1945年(昭和20年)から「週刊サンニュース」を経て、1949年(昭和24年)からフリーとなる。
1953年(昭和28年) 『日本の彫刻』で毎日出版文化賞を受賞。1964年(昭和39年)に『装飾古墳』を平凡社から出版。1965年(昭和40年)『装飾古墳』の出版の功績で日本写真協会年度賞、毎日出版文化賞を受賞。1972年(昭和47年)に『日本の塔』を学習研究社から出版。
1988年(昭和63年)から1995年(平成7年)まで日本写真家協会会長を務めた。写真の著作権保護期間を文学や音楽と同様の著作者死後50年に拡張を求める運動を展開した[1]。また協会の法人化の議論を進めた。1996年(平成8年)日本写真家協会功労賞を受賞。
1995年に自身の全作品を飯田市美術博物館に寄贈。1997年から飯田市が飯田市藤本四八写真文化賞を創設。
1975年(昭和50年) 紫綬褒章、1983年(昭和58年)勲四等瑞宝章を受章。
[編集] 写真集
- 『若狭古寺逍遥』ぎょうせい、2000年、ISBN 4324007675
- 『日本の塔』平凡社、1996年、ISBN 4582830226
- 『白山―信仰と芸能』朝日新聞社、1980年
- 『三熊野』学習研究社、1978年
- 『仏像を撮る』朝日ソノラマ、1977年
(他多数)
[編集] 参考文献
- 石川保昌編著 『報道写真の青春時代 - 名取洋之助と仲間たち』 講談社、1991年、ISBN 406205051X
- 白山眞理・堀宜雄編 『名取洋之助と日本工房(1931-45)』 岩波書店、2006年、ISBN 4000241567