藤山愛一郎
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藤山 愛一郎(ふじやま あいいちろう、1897年(明治30年)5月22日 - 1985年(昭和60年)2月22日)は日本の政治家、元衆議院議員であり、実業家。東京都出身。
[編集] 来歴・人物
慶應幼稚舎時代、当時の官立崇拝の強い風潮の中、府立一中を受験するも失敗、慶應普通部に進み卒業。慶應義塾大学法学部に進むが1918年(大正7年)に中退し、父・藤山雷太が築いた藤山コンツェルンの後継者として大日本製糖社長となる。その後、日東化学工業(現在の三菱レイヨン)社長、日本金銭登録機(現在の日本NCR)社長などを歴任、1941年(昭和16年)に僅か44歳で日本商工会議所会頭に就任した。
戦後公職追放となるが1950年(昭和25年)に復帰後は、1951年(昭和26年)に日本航空初代会長に就任。その後、経済同友会代表などを歴任する。
戦前から岸信介に資金援助していた関係もあり、フィリピンに対する戦後賠償交渉では政府全権になるなどしていたが、1957年(昭和32年)の岸内閣発足によって、民間人ながら岸に請われ外務大臣に就任。翌1958年(昭和33年)には自由民主党公認で神奈川一区から衆議院議員に当選。外相として、日米安保改正に取り組み、日米地位協定制定などに奔走した。その後は党の総務会長、経済企画庁長官などを歴任する。
党内では首相の座を目指して1960年(昭和35年)7月の総裁選にも出馬するも敗北。その後星島二郎、江崎真澄、小泉純也、福家俊一らを擁して岸派から分派、藤山派を結成した。その後3度敗北した総裁選[1]の度に票を増やしたがその内情は藤山の資金を目当てにした議員や他派閥で一癖も二癖もある議員が多く藤山自身を積極的に支持するものではなかった。その後、藤山派が細っていくのと同時に権力闘争にも興味を示さなくなったといわれる。
親中派として1970年(昭和45年)12月に日中国交回復議員連盟を結成し[2]政界引退後も国際貿易促進協会会長を務めるなど、松村謙三らと共に日中国交回復に心血を注いだ。
1967年(昭和42年)に勲一等旭日大綬章を授章。1976年(昭和51年)9月、総選挙に出馬せず政界を引退。連続6回当選。
派閥維持の費用などで巨額の資金を政治につぎ込み、資産の多くを失った。その様は「絹のハンカチが雑巾に」「最後の井戸塀政治家」[3]などと言われた。
1982年(昭和57年)2月に発生したホテルニュージャパン[4]火災では、ホテル内にあった事務所が全焼し「藤山現代中国文庫」と言われた中国近現代の資料も焼失した。
1985年2月22日死去。享年87。
弟に大日本製糖(現在の大日本明治製糖)の会長を務めた藤山勝彦、元日東化学工業(現在の三菱レイヨン)の副社長を務めた藤山洋吉、日本NCR副社長・菱和航空サービス株式会社会長を務めた田中元彦がいる。
妻は大蔵大臣を務めた結城豊太郎の三女、久子(ひさこ)[5]。長男に大日本製糖社長・会長を務めた藤山覚一郎がいる。娘婿に三菱重工業の取締役を務めた西村健三がいる。