迫水久常
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迫水 久常(さこみず ひさつね、1902年(明治35年)8月5日 - 1977年(昭和52年)7月25日)は、昭和期のいわゆる革新官僚、政治家。鹿児島県鹿児島市出身。
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[編集] 概要
東京府立第一中学校、第一高等学校、東京帝国大学を経て大蔵省入省。「知性の迫水」とも云われ当時を代表する高級官僚の一人であり企画院への出向を通して統制経済への策定にも関わり当時の革新官僚を代表する人物の一人でもある。 妻の万亀は岡田啓介内閣総理大臣の次女である。岡田の内閣総理大臣秘書官在任中、二・二六事件に遭遇し岡田首相を救出した。
また、終戦時の鈴木貫太郎内閣の内閣書記官長として陰で高木惣吉、加瀬俊一などと協力して終戦工作成功の一翼を担い、更に終戦詔書の作成に尽力し終戦の詔勅を記した玉音盤を決起将校から守り通したことも映画その他の表現媒体で知られている。
戦後は衆議院議員、参議院議員を務め、自由民主党参議院幹事長などを歴任し、河野謙三参議院議長の実現に動く。また財団法人日本盲導犬協会の初代理事長も務めた。
義兄である岡田貞外茂海軍中佐が海軍航空機墜落事故で殉職した事が微妙に影響してか迫水は大の飛行機嫌いとして知られ、東京と自身の選挙区の鹿児島との往復には必ず列車で移動し決して飛行機を利用しなかったそうである。
国会図書館東京本館に二・二六事件、終戦当時を証言した迫水のインタヴュー録音テープが保存されている。
[編集] 略歴
- 1902年 : 東京市に生まれる
- 1925年:東京帝国大学法学部法律学科(英法)卒業、大蔵省入省。
- 1930年:甲府税務署長。
- 1934年:岡田啓介内閣 内閣総理大臣秘書官。
- 1937年:大蔵省理財局金融課長。
- 1941年:企画院へ出向。企画院第一部第一課長。
- 1942年:大蔵省総務局長。
- 1943年:内閣参事官。
- 1944年:大蔵省銀行保険局長。
- 1945年:鈴木貫太郎内閣内閣書記官長兼総合計画局長官。貴族院議員(勅撰)
- 1947年:公職追放。
- 1951年:公職追放解除。昭電疑獄で起訴されるが無罪。
- 1952年:自由党から第25回衆議院議員総選挙に立候補し衆議院議員となる。
- 1956年:第4回参議院議員通常選挙に立候補し参議院議員に転じる。
- 1960年:第1次、第2次池田勇人内閣経済企画庁長官。
- 1961年:第2次池田勇人内閣郵政大臣。
- 1977年:死去(74歳)
[編集] 著書
- 機関銃下の首相官邸
- 大日本帝国最後の四か月
- 終戦時の真相と今上天皇の御仁徳
[編集] 迫水久常を演じた人物
- 加藤武(「日本のいちばん長い日」)
- 河原崎長一郎(「歴史の涙」)
- 江守徹
- 品川徹(「太陽」)