藤原義懐
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藤原 義懐(ふじわら の よしちか、天徳元年(957年) - 寛弘5年7月17日(1008年8月20日))は平安時代中期の貴族。北家の摂政藤原伊尹の五男として生まれる。母は代明親王(醍醐天皇皇子)の娘である恵子女王。甥である花山天皇の後見人(権中納言)として活躍した。
16歳の時、父・伊尹が急死し、2年後には二人の兄が同日に病死するという災難に見舞われ、不遇の時代を過ごす。ただ、姉の藤原懐子が生んだ皇太子師貞親王がおり、その数少ない外戚として東宮亮の任にあった。
永観二年(984年)皇太子が花山天皇として即位すると、一転して蔵人頭に抜擢される。その年のうちに正三位となり、翌年には従二位参議そして権中納言となって、一気に政界の中枢に躍り出たのである。権中納言の官位自体は公卿の中では低いものの、かつては藤原兼通(父・伊尹の弟)が天皇の伯父の資格で中納言から一気に関白内大臣に昇進した例もあり、義懐もまた次の大臣・関白の有力候補の一人になったのである。
ところが、天皇と義懐、そして父の代からの側近で天皇の乳兄弟でもある藤原惟成が中心となって推進した荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化など、革新的な政策は関白の藤原頼忠らとの確執を招いた。更に皇太子懐仁親王の外祖父である右大臣藤原兼家も花山天皇の早期退位を願って、天皇や義懐と対決の姿勢を示した。そのため、宮中は義懐・頼忠・兼家の三つ巴の対立の様相を呈して政治そのものが停滞するようになっていった。
更に混乱に拍車を掛けたのが天皇の女性問題である。藤原為光の娘忯子(忯はりっしんべんに氏)に心動かされた天皇は、忯子を女御にする事を望んだ。しかも、幸か不幸か義懐の正室は忯子の実の姉であり、天皇は直ちに義懐に義父・為光の説得を命じた。娘婿の必死の懇願に為光も忯子の入内を決める。だが、天皇の寵愛のし過ぎが忯子に無理を強いて結果的には病死させてしまうのである。これにショックを受けた天皇は出家して忯子の供養をしたいと言い始めた。義懐は天皇の生来の気質から、出家願望が一時的なものであると見抜き、惟成や更に関白頼忠も加わって天皇に翻意を促した。
だが、運命の日―寛和二年(986年)6月23日、花山天皇は深夜藤原道兼に促されて宮中を後にする。その後三種の神器がその異母弟藤原道綱らの手により皇太子のもとに運ばれた。全て道兼兄弟の父親である兼家の策略だったと伝えられている。義懐が花山天皇の「失踪」を知ったのはその後のことである。義懐と惟成は必死に天皇の居所の捜索にあたった。だが、義懐が元慶寺(花山寺)にて天皇を発見した時には天皇は既に出家を済ませていたのである。自分達の政治的敗北を悟った義懐は惟成とともにその場で出家してしまった。
僧侶となった義懐は京都の外れにある飯室に籠った。出家後、僅か数年で違う女性に手を出したと言われる花山法皇とは対照的に、藤原道長ら旧知の人達との交流は残しながらもその残り人生のほとんどを仏門の修行に費やした。その死を聞いた人々は「義懐は極楽往生を遂げたに違いない」と語り合ったと言われている。
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