藤原道綱
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藤原 道綱(ふじわら の みちつな、天暦9年(955年) - 寛仁4年10月15日(1020年11月2日))は、平安時代中期の公家。父は摂政藤原兼家。母は藤原倫寧の娘(藤原道綱母)で「蜻蛉日記」の作者。妻は源雅信の娘、源頼光の娘など。娘は宰相の君(藤原豊子)。
競争相手の藤原実資に「一文不通の人(何も知らない奴)」(小右記)と痛罵されるほど凡庸で、40代になっても自分の名前に使われている漢字しか読めなかったとも記されてしまった。父や兄弟に見られるような政治的才能や母のような文学的素養はなかったと伝えられており、出世も大きく遅れたが、花山天皇を出家させた事件では、長兄の藤原道隆と共に清涼殿から三種の神器を父邸に運ぶ等父の摂政就任に貢献し、その後は異母弟の道長とは親しかった(妻同士が姉妹、相婿)事もあって、その権勢による恩恵に預かった。
「蜻蛉日記」内での彼の記述は、やはり母から見てもおとなし過ぎるおっとりとした性格であると記されているが、弓の名手であり、宮中の弓試合で少年時代の道綱の活躍により旗色が悪かった右方を引き分けに持ち込んだというエピソードが書かれている。