荒川尭
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荒川 尭(あらかわ たかし、1947年5月3日 - )は長野県佐久市生まれの元プロ野球選手で現在は実業家。ドラフト会議の歴史で今なお話題にされる人物である。旧姓は出沢(でざわ)。
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[編集] 来歴・人物
[編集] 荒川博と養子縁組するまで
1947年に長野県北佐久郡岩村田町(のちに近村との合併で浅間町、現:佐久市)の農家に生まれる。4歳のころから野球をはじめ浅間中学校時代には「長野に出沢あり」と内外で知られる存在となっていたが、その噂を聞きつけた荒川博は実の両親を介して尭を呼び出し自前で野球をやらせて見せたが噂通りの結果になった。すっかりほれ込んだ荒川は「中学を卒業したら養子に迎えて東京で野球をやらせたい」と実の両親を説得した。それに対し実の両親は「田舎では良くとも都会では無理」と反対する。しかし尭は「僕はこの人と行くから」と両親を納得させた。こうして出沢尭は荒川博と養子縁組し荒川尭となり上京する事となるのである。
[編集] 養子縁組~ドラフト会議直前まで
養子縁組後上京し、早稲田実業学校に入学した。1年生のときからレギュラーとなったが養子縁組での入学の上にレギュラーとあって上級生から苛烈なシゴキに遭い、「何度も逃げ帰ろうと思ったが反対を押し切った末とあっては出来ず毎晩布団を口にくわえて泣いていた。」(本人談)ほど辛酸をなめていたという。しかしこのつらい体験が早稲田大学に進学してから生き、大学2年生の時東京六大学野球春季戦の初戦、対立教大学1回戦で1番ショートでスタメンデビューし1試合3ホーマーの鮮烈デビューをかざった。このことから「長嶋二世現る」と騒がれ、大学卒業までに連盟個人記録4位となる通算19本塁打をマークしベストナインに4回選出される。早稲田大学の同期には谷沢健一がおり、二人で「早稲田のON砲」と呼ばれ1960年代後半の早稲田大学野球部を牽引していた。早稲田でスターとあっては、ドラフト会議の注目株になるのは明白であった。
[編集] ドラフト会議~紆余曲折の末のプロ入り
養父の荒川博が巨人のコーチ、さらに東京六大学野球の常打ち球場明治神宮野球場を本拠地にしている球団がアトムズ(1970年からヤクルトアトムズ)という事もあり、尭は「巨人・アトムズ以外お断り」と宣言した。今でいうところの「逆指名宣言」を行ったのだが、1969年のドラフト会議で大洋ホエールズ(現:横浜ベイスターズ)が1位指名した。当時のルールでは、予備抽選で上位のくじを引いた球団が好きな選手を指名できるシステムになっていて、予備抽選で高いくじを引いた大洋が当時の注目株である荒川を指名したわけだったが、これが人生暗転に至るきっかけとなる。尭は即入団拒否してアメリカに留学する。1年後の意中の球団の再指名を待ったが1970年の暮れ、大洋サイドがヤクルトへの移籍を前提とした契約を持ちかけた。その年の暮れに尭はこれを許諾した。
そして、尭は大洋に入団し、約束どおりすぐにヤクルトへ移籍となった。とりあえず尭は念願を叶えたのだが「ドラフト破り」という事で世間から非難され、セントラル・リーグ事務局からは1ヶ月間の公式戦出場停止というペナルティを課された。加えて脅迫電話や血のりの手紙・カミソリ入りの封筒が連日投げ込まれなど嫌がらせをうけた。そして1971年1月4日夜、尭は自宅付近を散歩中に大洋ファンの暴漢に襲われ、後頭部を強打される。
[編集] プロ入り~引退
1971年5月の対巨人戦で5番三塁手としてデビュー。2年目の1972年には打率.282、本塁打18をマーク。当時ヤクルトで主砲といえるのは外国人しかいなかったため「初の日本人主砲誕生か」と期待されたが、暴漢に襲われた後遺症からか左目の視力が徐々に低下し3年目以降成績は尻すぼみとなる。結局1975年シーズンを最後に引退。実働シーズンはわずか5年。以来「プロで長く野球を続けるならばたとえ意中の球団でなくとも目上の意見を聞き入団すべし」が常識となってしまったほどの悲惨な前例を作ってしまった野球人生であった。
[編集] 引退後
引退直後東映の岡田茂社長から直々に俳優デビューの打診を受ける。しかし水物のスターの危うさを知る荒川はこの打診を拒絶し、セールスマンとして地道に働く決心をする。野球用品などを扱う会社「サンヨー・ジャイアント」を設立、そして現在では実業家として大成功を収めていている。ただし引退直後には、フジテレビのバラエティ番組に出演することもあった。また、前述の東映製作であった「がんばれ!レッドビッキーズ」では技術指導役を務め、実際に顔出し出演していた事もあった。
[編集] 現役時代の通算成績
- 1970年のみ大洋ホエールズ〔現:横浜ベイスターズ〕
- 1971年 - 1975年引退までヤクルトアトムズ→スワローズ〔現:東京ヤクルトスワローズ〕
実働5年、225試合に出場、770打数195安打、34本塁打、98打点、10盗塁、打率.253
[編集] 関連項目
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