英語崇拝
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英語崇拝(えいごすうはい)とは、他の言語と比較して英語の価値を絶対的なものとして畏敬し心酔している状態をさす。
津田幸男(1990, 1993)は、その症状として英会話症候群、英会話中毒、英会話アレルギー、英語圏への留学ブームを挙げている。これらの症状に陥る原因として、欧米コンプレックスが起因していることも指摘している。同様に、英語が生活の必要条件になり得ない日本の事情という文脈で使われることもある。
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[編集] 英語崇拝と指摘される事例
- 英語は全世界の人々に通用する。だから、英語を流暢に使えれば国際的に通用する人間になれるだろう。
- 英語は国際的に最も通用する言語であるが、英会話が出来ることが世界中の人々と意志疎通を可能にするわけではない。
- 日本語は世界一難解で原始的な言語だ。それに比べて、英語は合理的・論理的で格好良い言語だ。
- 日本語は、主にロマンス系やゲルマン系の言語話者にとっては非常に学びにくい言語であることは事実だが、それが原始的であることは必ずしも意味しない。また、格好良いかどうかは主観の問題である。また、「英語が論理的である」と言われる背景には、英語が歴史的に多くの非英語話者によって学ばれてきた経緯から、学習方法が良く確立されているという事情がある。これは、日本語が「感情を表すのに適した言語である」という誤解と裏表の関係にあり、英語も日本語も同様に感情的にも論理的にもなり得る言語であるが、一方の英語は既に十分に「論理化」されているのにも関わらず、日本語は未だに文法に関しても不安定な要素[1]が多く、「論理化」が待たれている状況にある。
- 「ここは日本なんだから、外国人も出来るだけ日本語を話すべき」と言う意見は馬鹿げている。英語が世界の標準語というのは世界の常識だ。
- 英語は世界の標準語であるとされるが、西洋人でも英語を理解できない人々は確実に存在する。また、「非日本語話者が日本において日本語を話すべきか」という問題に関しても、観光目的と就業目的の非日本語話者を同じ方針で捉えること自体にも問題がある。
[編集] その他の事例
英語に対する日本語の劣等感のみならず、英語以外の(特に非西欧系の)言語、あるいはその使用者に対する偏見・蔑視もそれらの言語に対する固定観念と併せて現れる場合がある。
同時に、英語崇拝を糾弾する言説は、英語が話せない・理解できない日本語話者の逆コンプレックス[2]という指摘もある。
[編集] 英語崇拝の成立背景
アメリカやイギリスといった現代の覇権的国家の言語が世界中で広く使われていることは、歴史を鑑みても、それほど特殊な状況とは言えないとされる。例えば、発展途上国、特にその国で指導的立場になり得る人材が英語を学ばないということは、一般的には死活問題であり、故に弱い立場の人々ほど懸命に英語を習得しようとする傾向がある。つまり、英語崇拝という言葉が日本において説得力を持つのは、日本においては英語が必ずしも必要なものではないという背景がある。
同様に、英語を学ばずとも最低限の生活が保障される国、アジアで言えば韓国、ヨーロッパで言えばドイツやフランスといった国々の人々も、日本と同様に英語が不得意であるという状況は否定できない。
英語が必須でない国の多くは、いずれの国も歴史的に英語以外の言語が国民統合に必要不可欠である事情もある。
もっとも、現代においては英語が科学技術や政治経済など多くの面で非常に利便性の高いツールになっているため、日本人においても英語を知ることが何らかの利益に直接繋がりつつあることも事実である。例えば、プログラマーに代表されるようなコンピュータ関連の職業においては、ソフトウェアの仕様や資料が英文である場合が多く、日本語環境だけでは市場競争に遅れを取ってしまう場合がある。
近年の傾向としては、むしろ英語を知らないために損失を被る場面が増えており、英語崇拝という言葉が説得力を持ちにくくなりつつある。
[編集] 注釈
- ↑ 事実、日本国民に対する国語教育と非日本語話者に対する日本語教育は、同じ日本語を対象にしているのにも関わらず、文法の解釈の仕方といった部分で異なる部分が存在する。
- ↑ 劣等感を逆に優越感として捉える心理
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 津田幸男(1990)、英語支配の構造、第三書館。 ISBN 4807490222
- 津田幸男(1993)、英語支配への異論、第三書館。 ISBN 4807493043