臼田亞浪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
文学 |
ポータル |
各国の文学 記事総覧 |
出版社・文芸雑誌 文学賞 |
作家 |
詩人・小説家 その他作家 |
臼田亞浪(うすだ あろう、1879年(明治12年)2月1日 - 1951年(昭和26年)11月11日)は日本の俳人。本名は臼田卯一郎(ういちろう)。
目次 |
[編集] 経歴
長野県佐久郡小諸町(現・小諸市)に生まれる。法政大学を卒業し、やまと新聞に入社。新聞記者となる。
大正4年(1915年)大須賀乙字とともに俳誌『石楠』を創刊し俳壇に登場した。高浜虚子の『ホトトギス』、河東碧梧桐の新傾向俳句を批判し、俳壇革正を目指した。松尾芭蕉、上島鬼貫を慕い、自然の中にこそ真の俳句があると唱え自然感のある民族詩としての句作を目指した。翌大正5年(1916年)やまと新聞を退社し、以後は句作に専念することとなった。
大正7年(1918年)『石楠』創刊の同志であった乙字と内紛により決別。私生活では子供の居なかった亞浪であるが、大正8年(1919年)妹の死を期に6歳の娘を引き取り養子とした。
昭和20年(1945年)3月10日、東京大空襲により印刷所が罹災し『石楠』休刊となる。この時家族と共に西多摩に疎開した。昭和21年(1946年)印刷所を長野市に移し『石楠』復刊。この年8月、夫人が死去。昭和26年(1951年)脳溢血に倒れ死去。享年73。墓所は自宅近くの東京都中野区宝仙寺。法号は石楠院唯真亞浪居士。
『石楠』からは大野林火、篠原梵、原田種茅など多くの門人が育った。
[編集] 作品集
[編集] 句集
- 亞浪句鈔(1925年)
- 旅人(1937年)
- 白道(1946年)
- 定本亞浪句集(1949年)
[編集] 著書
- 道としての俳句(1942年)