義浄
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義淨(ぎじょう、635年(貞観9年) - 713年(先天2年))は唐の僧。俗姓は張、字は文明、斉州(山東省済南市)の人である。
幼くして出家し、15歳の時(649年(貞観23年))には西域行を志し、法顕や玄奘の行跡を思慕していたという。
671年(咸亨2年)、37歳で番禺県(広東省)を同志数十名とともに出発しようとしたが、余人は全て辞退したため、義淨一人、海路でインドへ渡り、鹿野苑や祇園精舎を巡拝した。帰路も再び海路で、マレー・インドネシアを経て、695年(証聖元年)帰国。25年間に30余国を遊歴し、400部、50万頌のサンスクリットの経律論、金剛座、舎利300粒などを齎した。
武則天は、自ら洛陽の上東門外に出迎え、勅によって仏授記寺に迎え入れた。以後、仏典の漢訳を行う。訳経は国家事業として洛陽・長安の大寺や内道場で行なわれ、実叉難陀・阿儞真那・波崙らの西域渡来の僧が訳経を担当し、武則天自らが序を著した。漢訳された経典は56部230巻に及んだ。また、『南海寄帰内法伝』、『大唐西域求法高僧伝』を著す。
713年(先天2年)、79歳で亡くなった。法臘59。『宋高僧伝』巻1に伝あり。
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