総会屋
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総会屋(そうかいや) とは正規の職業ではなく、株式会社の株式を若干数保有し株主としての権利行使を濫用することで会社等から不当に金品を収受し又は要求する者を指す。株主総会の活性化を阻害する資本主義の暗部の存在として1981年(昭和56年)、1997年(平成9年)の二度の商法改正により実質的に活動を封じた現在、警察庁がその活動を確認できるのは400人弱とされる。別名、特種株主・プロ株主。違法事業者を指すracketeerと英訳されることが多い。
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[編集] 総会屋の存在基盤・分類・名称
総会屋はその名の通り株主総会を活動の場とする。本来の株主総会は商法ならびに定款に基づいて運営されその手続きは極めて厳格である。株主総会が諸要因により形骸化した中で会社の体面を気にする経営陣を利用したアウトローの資金源<シノギ>の一つが総会屋であった。資金源となる財産上の利益とは金銭、物品、有価証券、債権、信用供与、債務免除、債務保証、サービス労務、施設提供、無償の海外旅行やゴルフコンペの参加、リハーサル出席株主への日当、社会的儀礼を越える手土産・飲食費・交通費、株主・その関係者の慈善団体・研究機関への寄付・会費・出版物の購入・広告料など。「相当な対価を伴う商取引」も含める。
[編集] 分類・名称
この利益を得るために、総会屋は株主総会に出席して活動をしていたが具体的には以下の類型に大別される。
- 進行係としての総会屋(広く総会屋として知られる)
議事運営において会社のリハーサルから参加しサクラとして会社の説明に「原案賛成」「異議無し」「議事進行」などと発言することで進行を図る者。別名「与党総会屋」。いわゆる三本締めで総会を終わりとする「シャンシャン総会」とよぶ無風の総会にさせるのが仕事。但、会社の態度によっては総会荒らしとなる危険も有する。その会社の総会を仕切る実力者を「幹事総会屋」ともよぶとする説もある。
- 会社ゴロとされる総会屋(総会荒らしとして知られる)
総会で嫌がらせや無意味な発言や質問を繰り返し議場を混乱させたり、総会を長引かせたりして自己の存在を認めさせることで利益供与を得ようとする者。別名「野党総会屋」。
- 新聞屋(雑誌屋、通信社も同類)
総会屋とブラックジャーナリストの中間に位置しており、内容のない新聞・雑誌を発行。購読料、広告代を名目として会社から利益供与を得ようとする者。総会に出席しないものも多い。この他にも株式の分割をしていやがらせをするタイプ、総会に出席せず経営陣に総会ならびに会社の情報や噂を伝えるタイプもいるとされた。最近では独自のインターネットサイトを立ち上げて企業に対する信用毀損行為などを行い、利益供与を受けようとするものも出てきた。
「流動」「新雑誌X」など、かつては総会屋資本の新左翼系雑誌もあった。「創」も総会屋雑誌が源流。
[編集] 総会屋の歴史
総会屋と呼ばれる株主がいつ、なぜ総会に出席するようになったかについては明確ではないが大正初期に花井卓蔵は買占め等により会社の支配権を争奪する事例が増えた実務界で攻防両者とも法理論と実務に通じた総会協力者が必要になると考え久保祐三郎に総会運営を研究するように勧めたと謂われる。
同時期に洲崎の武部申策(武部組・生井一家五代目古河吉の舎弟)は郷誠之助が用心棒を依頼した事を端としてガス、電力会社の総会に自ら足を運び、又は自分の影響下にある田島将光のような人間を出席させている。「総会屋」(森川哲郎)によると当時の総会屋は業界全体でも150人程度しかおらず会社も儀礼の金銭を渡すだけだったとされる。
世間の注目を浴びたのは財閥解体後で「白木屋」騒動(1952年~1955年)、後述する東洋電機カラーテレビ事件(1960年~1969年)、近江絹糸総会(1963年~1965年)は総会と同様裁判の行方が関心事とされた。御家騒動、乗っ取りなどの事件に介入して知恵を授けたり裏面工作をする黒幕としては戦前からの大物として久保、田島の名が高く久保の没後は右翼の児玉誉士夫に師事する一派が台頭したとする説がある。1960年代より小川薫や論談同友会など暴力的な広島グループが世間をにぎわせた。また総会屋の用心棒として周辺にいた暴力団が次第にノウハウを吸収、構成員や関係者を総会へ進出させた結果1970年代の最盛期にはプロ株主の大部分が暴力団関係者とされた。
有名な人物としては住吉連合<現・住吉会>副会長で小西組組長(小西政治経済研究所)の小西保(立川・曙町)、住吉連合<現・住吉会>特別参与で音羽一家総長(企業擁護奇兵隊)の木村秀二(小石川・後楽園)、山口組系白神組<後、一和会系白神組>組長(八紘会)の白神一朝(長堀橋2丁目)、初代松葉会<現・六代目松葉会>総務(四代目体制で常任相談役)で全日本愛国者団体会議の重鎮としても知られる志賀敏行(麹町)、同じく松葉会の中野喜三郎(茅ヶ崎)、右翼の荒原朴水(辛亥会)や武井日進(市川中山法華経寺大僧正で佐藤栄作の用心棒。佐郷屋亡き後全日本愛国者団体会議の議長に就任)と連携した万年東一、高橋金治、森永正彦の大日本一誠会(内神田3丁目)等枚挙に暇がない。1970年代後半には総会屋の推定人口は8,000人を越えたとされる。
[編集] 法規制の沿革
法による規制・牽制は1981年(昭和56年)の商法改正以前と以後に大別できる。
昭和56年以前は総会屋に対して商法494条の『株主が株主総会で株主権の濫用をすることにより他の株主の発言や議決権の行使を妨害するように依頼をする[不正の請託]が商法違反にあたる』とする規定が存在していた。東洋電機カラーテレビ事件はモデルケースの一つである。
- 東洋電機カラーテレビ事件
1962年、電機製品メーカーである東洋電機製造が安価なカラーテレビを開発したと嘘の宣伝をして世間の糾弾を浴びたため、定時株主総会を会社が乗り切るために総会屋に協力を依頼した。会社側、総会屋(久保祐三郎、松本三郎)が商法494条の贈収賄罪で起訴され、東京地裁の第一審判決は議場を荒らす総会荒らしと議事運営を円滑にする総会屋を区別したうえで、会社の議案が通るような議事運営を図るように総会屋に頼んだのは不正の請託に当たらないとして全員無罪とした。(詳細は判例時報参照)。検察は控訴し第二審、上告審は全員有罪となる。ここで最高裁は「経営上の不正や失策に対する追求を逃れるために総会屋に株主権の濫用をすることにより他の株主の発言や議決権の行使を妨害するように依頼したのは[不正の請託]である」としたが、この事件は494条の実効性に疑問をなげかけた。
1981年の商法改正は総会屋に関していえば端株主を株主総会から閉め出す案が立法化され、[不正の請託]であるかないかを問わず株主の権利行使に関して会社の財産を支出した時点で刑事罰の対象とする点が目を引いた。単位株導入、利益供与禁止制度新設がその柱である。
- 『単位株制度の導入』の単位株とは額面50,000円に相当する数の株式を1単位とした場合、50円額面の場合(50×)1000株、500円額面の場合(500×)100株の株式を持たなければ議決権を行使できなくなり単位未満の端株を持って株主総会に出席していた総会屋は排除され、会社も株主総会招集通知の通信費や運営の費用を減らせるメリットが生じるとされた。
- 『利益供与禁止制度の新設』は会社又はその子会社の計算で株主の権利行使に関して利益供与をした場合、会社の取締役、監査役およびこれらの職務を代行する者、支配人その他の使用人と利益供与をうけた者は商法の罰則規定により刑事上の制裁(6ヵ月以下の懲役、または30万円以下の罰金)を受けるものとした。
1982年(昭和57年)の10月1日に改正商法が施行されると、単位株制度は実際に多くの総会屋を株主総会から閉め出し、会社から総会屋への対策費などの支出も減少したが、生き残りをかけた総会屋の活動も活発になる。1984年(昭和59年)1月30日のソニー株主総会では12時間半という記録的なマラソン総会となり、「総会屋は死なず」という衝撃を世間に与えた。
しかし、総会屋排除の気運はもはや時代の要請でもあり、書面による株主の質問への一括回答方式、権限が拡大された議長が運営の主導的な立場をうち出すという地道な努力を続ける企業が確実に増えていた。一方で総会屋との水面下の交際が続いている企業も依然としてあり、そんな中、商法改正と同じ年の1998年(平成9年)の金融スキャンダルが発覚、報道された。
この件では警察・検察は企業のトップにも峻烈とも思える厳しい態度で臨んでいる。結果、狭い業界内部で情報が漏れる危険を犯しながら総会屋との交際を続けようとする企業も激減、上場企業の多くは株式の持ち合い保有をやめており、外国資本が参入した証券界では証券取引の監査組織が法令遵守を上場企業に求めるという時代になっている。
もはや、銀行が自社の株を持っているから如何こうという時代でもなく、法令遵守の鎖に縛られ、消費者に視線を向けなければ生き残れない時代となっており、ここに総会屋として生き残る道はほぼ閉じられている。反面「みそぎ」という謝罪と法令遵守の誓約により事件をうやむやにする風潮が日本社会に根付いたのは、国際化に対応するためとはいえ納得しがたいという意見もある。
[編集] 関連項目
- 株主
- 株主総会
- 久保利英明
- 城山三郎著 『総会屋錦城』ISBN 4101133018