第20回衆議院議員総選挙
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第20回衆議院議員総選挙は、昭和12年(1937年)4月30日に投票された衆議院選挙。
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[編集] 概説
昭和12年(1937年)2月2日に成立した林銑十郎内閣は、同年2月15日に再開された第70回帝国議会において、重要法案の審議引き延ばし戦術に出た、立憲政友会、立憲民政党に対して、反発を強めた。昭和12年度予算が可決されたのを見て、林内閣は、政党のあり方を政府に対して翼賛的ではないとし、議会刷新の必要性に鑑み、衆議院を解散した。しかし、政党や国民は、予算成立というご馳走を食べ終わるなり、解散をしたということで「食い逃げ解散」と非難した。4月30日の投票結果は、与党的立場をとる昭和会、国民同盟などは、合わせても40議席程度で野党の政友会、民政党が優位に立った。
しかし、総選挙後も林内閣は政権維持の姿勢を崩さなかったため、民政党、政友会に加え、社会大衆党は一斉に林内閣に対して退陣を要求した。林首相は、退陣要求に対して強気の姿勢を崩さず、5月15日の地方長官会議(知事会議に相当)の席上、政権維持を言明し、再度の衆議院解散をちらつかせた。政党側も一層態度を硬化させ、倒閣運動は激化する。与党・昭和会の望月圭介は林首相に対し善処を要求し、林も窮した。5月31日林内閣は総辞職した。
なお、この選挙での当選者は昭和16年(1941年)に「戦時下」に選挙が度々行われることを好まない軍部の意向によって衆議院議員の任期が1年延長されて任期5年に変更された。この任期中に大政翼賛会が結成されて日本から政党が事実上消滅し、衆議院の解散が行われることもないまま、「翼賛選挙」との悪名の高い次の総選挙を迎える事となる。
[編集] 解散名称
- 食い逃げ解散
[編集] 党派別獲得議席
- 立憲民政党 179議席
総裁=町田忠治
- 立憲政友会 175議席
総裁代行委員=鳩山一郎、前田米蔵、中島知久平、島田俊雄(2月15日、鈴木喜三郎は総裁を辞職)
- 社会大衆党 36議席
委員長=安部磯雄
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