竹越与三郎
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竹越与三郎(たけこし・よさぶろう、慶応元年(1865年) - 昭和25年(1950年))は明治・大正・昭和期の歴史家、政治家。号は三叉。
[編集] 生涯
埼玉県本庄に清野仙三郎の二男として生まれ、1873年竹越藤平の養子となり、新潟県頸城郡柿崎で少年期を過ごす。兄・清野迂策のすすめにより、家人の反対を押し切って東京へ行き、英学者の中村敬宇の教えを受け、その後1882年に慶應義塾に移った。
慶応義塾中退後に言論界に入り、大阪公論、時事新報、国民新聞各記者を歴職、この間『新日本史』『二千五百年史』を著して陸奥宗光、西園寺公望の知遇を受け、1896年に雑誌『世界之日本』の主筆となった。1898年の第3次伊藤内閣の西園寺文相の下に文部省勅任参事官となり、翌年渡欧して各国を視察した。1902年から政界に入り衆議院議員に当選五回、立憲政友会に属する。1922年に宮内省の臨時帝室編修局御用掛と編修官長として『明治天皇記』編纂に関わった。翌年に貴族院議員となり、1940年に枢密顧問官に任ぜられる。だが、この頃から、軍部によって旧著の発売を禁じられるなどの政治的圧迫を受けるようになる。やがて太平洋戦争で日本が敗れるとその政治的責任を痛感して一切の公職から引退した。
この間、1915年から本野一郎、池田成彬らと日本経済史編纂会を起し、1919年『日本経済史』八巻を刊行し日本経済史学確立の礎石となった。徳富蘇峰や山路愛山らとも親交があり、日本の民間史学の一系譜をなした。ほかに『マコウレー』『格朗穵(クロムウェル)』『台湾統治志』『陶庵公』『南国記』『読画楼随筆』『倦鳥求林集』などの著書がある。婦人運動家である竹越竹代は妻である。
[編集] 歴史家として
愛山や蘇峰と同じく、三叉もキリスト教を経て歴史の道に入った人であり、史論や現代史に挑戦した。トーマス・マコーレーや頼山陽などの教養も他の2人の史家と共通しているが、マコーレーのホイッグ史観、つまり進歩への楽観がより強くあらわれ、その叙述は日本史全体を一貫した鳥瞰図になしえた。『二千五百年史』は天皇制のありのままを記したため、北一輝の『國体論及び純正社会主義』で大いに参考にされ「民族としての日本史は、実に皇室に対する乱臣賊子の物語である」と結論させた。『二千五百年史』における権力観・天皇観は、ドイツ史学や考証学の系統を引くいわゆる官学と隔たり、太平洋戦争期に復刊を禁じられた原因となった。たとえば天智天皇や後醍醐天皇のような人物を弱点が多い一英雄として扱い、彼らの政治家としての能力に忌憚ない批評を加えたような史書はその後にも例を見ないのである。
[編集] 外部リンク
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