秋葉山本宮秋葉神社
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秋葉山本宮秋葉神社 | |
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上社本殿 |
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所在地 | 静岡県浜松市春野町領家 |
主祭神 | 火之迦具土大神 (江戸時代以前は三尺坊大権現および観世音菩薩) |
社格等 | 県社、別表神社 |
創建 | 大宝元年(701年) |
本殿の様式 | -- |
例祭 | 12月16日 |
主な神事 | -- |
秋葉山本宮秋葉神社(あきはさんほんぐうあきはじんじゃ)は、静岡県浜松市春野町領家の赤石山脈の南端に位置する、標高866mの秋葉山の山頂付近にある神社。日本全国に存在する秋葉神社(神社本庁傘下だけで約800社)、秋葉大権現および秋葉寺の事実上の総本社格である。
目次 |
[編集] 祭神と呼び名
現在の祭神は火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)。江戸時代以前は、三尺坊大権現(さんしゃくぼうだいごんげん)を祀る秋葉社と、観世音菩薩を本尊とする秋葉寺とが同じ境内にある神仏混淆(しんふつこんこう)で、人々には秋葉大権現(あきはだいごんげん)や秋葉山(あきはさん)などと呼ばれた。古くは霊雲院(りょううんいん)や岐陛保神ノ社(きへのほのかみのやしろ)などの呼び名があったという。
[編集] 歴史
創建時期には諸説があり701年(大宝元年)に行基が寺院として開いたとも言われるが、社伝によれば最初に堂が建ったのは709年(和銅2年)とされている。「秋葉」の名の由来は、大同年間に時の 嵯峨天皇から寺に賜った和歌の中に「秋葉の山に色つくて見え」とあったことから秋葉寺と呼ぶようになったと社伝に謳われる一方、これが後世の附会に過ぎないとする説も根強い。そのほか「行基が秋に開山したことによる」「焼畑に由来する」などの異説も多い。
その後平安時代初期、信濃国戸隠(現在の長野県長野市、旧戸隠村)の出身で越後国栃尾(現在の新潟県長岡市)の蔵王権現(飯綱山信仰に由来する)などで修行した三尺坊(さんしゃくぼう)という修験者が秋葉山に至り、これを本山とした」と伝えられる。しかし、
- 三尺坊が活躍した時期(実際には鎌倉時代とも室町時代とも言われる)にも、出身地や足跡にも多くの異説がある。
- 修験道は修験者が熊野、白山、戸隠、飯綱など各地の修験道場を行き来しつつ発展しており、本山という概念はなかった。
- 秋葉山以外にも、蔵王権現や駿河国清水(現在の静岡県静岡市清水区、旧清水市)の秋葉山本坊峰本院などが本山を主張し、江戸時代には本末を争ったこれらの寺が寺社奉行の裁きを受けたとの記録もある。
- 戦国時代より以前に成立した、三尺坊や秋葉大権現に関する史料が極端に少ない。
よって現状では、祭神または本尊であった三尺坊大権現の由来も「定かではない」と言う他はなく、今後の更なる史料の発掘および研究が待たれる。
戦国時代までは真言宗との関係が深かったが、徳川家康の隠密であった茂林光幡が戦乱で荒廃していた秋葉寺を曹洞宗の別当寺とし、以降徳川幕府による寺領の寄進など厚い庇護の下に次第に発展し、秋葉大権現として名を馳せてゆくこととなった。
徳川綱吉の治世の頃から秋葉大権現は「火防(ひぶせ)の神」として全国で爆発的な信仰を集めるようになり、特に度重なる大火に見舞われた江戸には数多くの秋葉講が結成されて沢山の参詣者が秋葉大権現を目指すようになった。この頃山頂には本社と観音堂を中心に本坊・多宝塔など多くの建物が建ち並び、十七坊から三十六坊の修験や禰宜(ねぎ)家が配下にあったと伝えられる。その賑わいはお伊勢参りにも匹敵するものであったと言われ、各地から秋葉大権現に通じる道は秋葉路(あきはみち)や秋葉街道と呼ばれて、道標として、また信仰の証として多くの常夜灯が建てられた。また、全国各地に神仏混淆の分社として多くの秋葉大権現や秋葉社が設けられていった。
1868年(明治元年)に明治政府によって神仏分離令が、1872年(明治5年)には修験宗廃止令が強行され、山内の修験派と僧派の対立も手伝って、三尺坊大権現は萬松山可睡斎(静岡県袋井市)に遷座、秋葉寺は寺領や宝物を没収され廃寺とされた。秋葉社も一旦は廃社とされたが、翌1873年(明治6年)、地元の人々の強い願いにより、祭神を火之迦具土大神とする秋葉神社として再建された。これに伴って各地に設けられた分社は分社としての地位を失い、それぞれの土地の事情で神仏分離令に従い、神社または寺として独立の道を歩むこととなった。
第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)、山頂(上社、かみしゃ)が山火事で山門を除く建物全てを焼失したため、秋葉神社は一時は廃社も同然となった。しかし、1986年(昭和61年)に現在の社殿が再建され、相前後して山頂に通じる車道の整備も成ったため、ここに名実共に秋葉山本宮秋葉神社として再興を果たした。
[編集] 現在
山頂の上社と、麓の気田川の畔にある下社(しもしゃ)とは、徒歩で登り1時間半から2時間、標高差約750mほどの古くからの参道が通じる。また山頂に至る車道は西側の麓を走る国道152号線から車で20分ほど登る、やや狭いが舗装された林道となっている。山頂からの眺望は東海一とも言われ、観光スポットとしても人気が高まっている。山頂の少し下にある、山火事で焼け残った山門や常夜灯の数々、および周辺に残る茶屋の跡などが江戸時代の繁栄のほどを偲ばせる。
現在でも火防の神様として、全国各地から火を取り扱う仕事(消防・火力発電等)の関係者が、お参りとお札を求めにやってくる。
山頂より古くからの参道を少し下ると秋葉山秋葉寺(あきはさんしゅうようじ、三尺坊(さんしゃくぼう)とも呼ばれる)があるが、1880年(明治13年)、やはり地元の人々の強い願いにより、本尊を観世音菩薩とする寺として再建されたものである。