神道天行居
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
神道天行居(しんどうてんこうきょ)は、友清歓真(ともきよ よしさね)によって創始された古神道系の新宗教団体。秘密結社に分類される事もある。本部は、山口県熊毛郡田布施町の石城山の麓。
他宗教でいう信者を同志、教師を道士と呼ぶ。
目次 |
[編集] 教義・教理
本田霊学を開いた本田親徳、幽冥界に往来したという宮地水位、友清に太古神法を伝えた堀天龍斎、その堀天龍斎に太古神法を伝えた沖楠五郎、吉野山から登仙した山中照道を天行居の先達としている(天行居に直接関係したのは堀天龍斎のみだが)ように、天行居の教義のうち、霊魂観は本田親徳の、幽冥観は宮地水位のものである。
『古事記』、『日本書紀』、『古語拾遺』などと、宮地水位が著した『異境備忘録』、1946年(昭和21年)に本部で定めた『山規七規』、友清が1927年(昭和2年)に日常の生活心得を27ヵ条で記した『信条』を教典としている。その他の友清の著作については、天行居の機関誌『古道』に随筆風に書いた記事を集めたものが多く、全体に統一性があるのは『霊学筌蹄』、『天行林』、『古神道祕説』などの初期のものしかない中で、昭和4年の友清の講演が収められた『神道古義』、友清が晩年に自らの信念を密かに記した『信白文艸藁』を重視している。
[編集] 歴史
友清歓真が1920年(大正9))に創設した霊学の実践団体である格神会を前身とし、1927年(昭和2年)に石城山上の石城神社での神示「山上の天啓」(十の神訓)を立教の原点としている。
1931年(昭和6年)、井口寅次に宗主職を譲り、友清は顧問となったが、1934年(昭和9年)、天行居の内紛から井口は宗主の地位を剥奪された。戦前には、天行居道士であった松浦彦操が離脱し、太古神法を松浦家の家伝とする系譜を称した。
終戦直後には、傘下の教会長であった正井 益が離脱し宮地水位の道術を継承したと称して古神道仙法教を興し、本部職員であった清水宗徳も離脱し同じく宮地水位の道統を称し神仙道本部を興した。渡辺一郎こと實川泰仙も戦前からの会員で、戦後は紫龍仙道人と名を改めて、大津在住の天行居道士・岡津健道氏と淡紅玄光会を発足し、龍玉天玄真君の内命により独自の教義をひろめる。友清歓真は『天行居憲範』で宗主の世襲を禁じていたが、友清死後、第5代宗主・友清操(友清歓真の未亡人)の時代に憲範が改正され、友清歓真の三女である友清鈴世が第6代宗主に就任したことから、今後は友清家が宗主を世襲していくとみられている。
[編集] 終戦時の軍旗秘匿
現在、靖国神社の遊就館に展示されている、完全な形で現存する唯一の軍旗である歩兵第321連隊の連隊旗は、占領軍の撤退まで、天行居の石城山上の神殿である日本神社に秘匿されていたものである。これは終戦時の軍旗奉焼命令に対して、当時の連隊長・後藤四郎中佐が天行居の信者であったことから、友清の許可を得て、旗竿だけを軍旗箱に納めて将兵の前で奉焼し、それ以外の旗と旗竿の先端に付いている菊の紋章は別の小箱に納めて、旗手に命じて密かに天行居の本部に届けさせて実現した。
その後、旗竿を複製し、後藤ほか旧歩兵第321連隊有志の手で靖国神社に奉納された。
[編集] 霊的国防
友清は、武力戦・生産戦・思想戦に対して霊的方面から援護するという「霊的国防」を提唱した。これを実現するために、天行居では、友清の指示により、1927年(昭和2年) - 1952年(昭和27年)の間、白馬岳山上、中朝国境の白頭山頂の天池、武甲山上、洞爺湖、台湾の日月潭、琵琶湖、富士山麓、十和田湖、明石海峡に神璽を鎮め、国内の神璽については、現在でも毎年、現地で例祭を執行している。これらの神璽のうち白頭山天池の神璽を最も重要なものとしている。
また、現在でも毎年、石城山上で霊的国防のための夜間修法を集団で行っている。戦前は国家の非常時にも臨時に夜間修法を行ったが、戦後には臨時夜間修法は行われていないようである。
意外なことに、太平洋戦争中、この考えは「武力戦を軽視する害悪思想」として、当局から警戒された。この友清の霊的国防論は三島由紀夫の『文化防衛論』に影響をあたえたという。
[編集] 太古神法
友清によると「太古神法とは、神事の根元をなすもので、天孫降臨以来、皇室で伝承されていたが、倭姫命以降、代々の斎宮に口伝で相伝されてきた秘事」だという。
友清は、京都の堀天龍斎から1927年(昭和2年)に相伝を受けたとされ、この太古神法を伝承していることが、天行居の霊的権威の最大の裏付けとしている。
友清以後は、天行居の宗主と幹事長が太古神法の全伝を伝承し、一般道士は太古神法の関連秘事(この部分も太古神法と称しているが、厳密には太古神法ではないと友清は記している)の一部の相伝のみ許されている。