砥石崩れ
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砥石崩れ(といしくずれ)とは、天文19年(1550年)9月、甲斐の戦国大名・武田信玄(当時は晴信)と北信濃の戦国大名・村上義清との間に勃発した砥石城の戦いのことである。本来ならば砥石城の戦い(といしじょうのたたかい)というのが正確だが、この戦いで最強の戦国大名の一人である武田信玄が完敗したことから、一般に砥石崩れと呼ばれている。
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[編集] 略歴
[編集] 背景
天文19年(1550年)7月に小笠原長時を破って信濃の大半を制圧した武田晴信は、いよいよ信濃全土の平定を目指して同年9月に北信濃の戦国大名・村上義清の出城である砥石城攻略に乗り出した。晴信は天文17年(1548年)の上田原の戦いで義清に大敗していたこともあり、その復仇を目指しての戦いでもあった。また、この城を落とせば、村上氏の北信濃における防衛線が崩壊するため、重要な戦いでもあった。
[編集] 砥石城攻め
砥石城は小城ではあったが、その名のとおり、東西は崖に囲まれ、攻める箇所は砥石のような南西の崖しかないという城であった。このときの武田軍の兵力は7000人、対する城兵は500名ほどでしかなかった。しかし城兵500人のうち、半数はかつて天文16年(1547年)に晴信によって虐殺された志賀城の残党であり、士気はすこぶる高かった。
9月9日、武田軍の武将・横田高松の部隊が砥石のような崖を登ることで総攻撃が開始された。しかし城兵は崖を登ってくる武田兵に対して石を落としたり煮え湯を浴びせたりして武田軍を撃退し、横田高松は戦死してしまった。
9月11日、今度は武田軍の武将・小山田信有による城攻めが行なわれたが、これも同じく城兵の果敢な反撃にあって散々に打ち破られ、信有はこの戦いで重傷を負い、後にそれがもとで天文21年(1552年)に死去したのである。
このように、兵力においては圧倒的に優位であった武田軍であったが、堅城である砥石城と、城兵の果敢な反撃の前に、晴信は成す術がなかった。しかもこのように武田軍が苦戦している間に、村上義清自らが2000人の本隊を率いて、葛尾城から後詰(救援)に駆けつけて来る。これにより武田軍は砥石城兵と村上軍本隊に挟撃される。戦況不利を判断した晴信は、撤退を決断するが、村上軍の追撃は激しく、この追撃で武田軍は1000人近い死傷者を出し、晴信自身も影武者を身代わりにしてようやく窮地を脱するという有様であったとまで言われている。
[編集] 結果
以前の上田原の戦いは、村上軍にも多大な犠牲があり、どちらかというと引き分けと言ってもよい。しかし今回の砥石城の戦いは、武田軍の完敗であった。兵力的にも7000人の武田軍に対し、3分の1近い2500人の村上軍相手で、しかも村上軍の犠牲が皆無に等しいのに対し、武田軍は武田二十四将に数えられる横田高松をはじめ、小山田信有らおよそ1200人もの将兵を失ったのである。
戦国最強と言われる武田信玄の生涯の中で、この戦いは生涯最大の負け戦といわれている。このため、この戦いは「砥石崩れ」と呼ばれている。なお、武田信玄の戦績は49勝2敗20分けとされているが、このうちの2敗は、いずれも義清がつけたものである。
しかし天文20年(1551年)、武田信玄の軍師・真田幸隆の謀略によって砥石城は武田軍の手に落ち、村上義清の勢力はそれを契機として衰退し、天文22年(1553年)に義清は信玄によって越後に追われたのである。
カテゴリ: 日本の戦国時代の戦い | 長野県の歴史