横田高松
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横田 高松(よこた たかとし、生年不詳 - 天文19年10月1日(1550年11月9日))は戦国時代の武将。武田信虎、武田信玄に仕える。十郎兵衛。備中守。
横田高松は元々は近江国甲賀の出身で、佐々木氏の一族で六角氏の家臣であったとされる。理由や時期は不明であるが、信虎の代に甲斐国に入り武田氏に仕えた。先読みと駆け引きに優れた戦巧者で、足軽大将として甘利虎泰の相備えとなり、各地で戦功をあげた。
天文10年(1541年)に信虎が追放されると信玄に従い信濃国攻略戦に参加。天文16年(1547年)閏7月の志賀城攻めでは、行軍困難な城の後方へ回り込んで水手を絶ち、さらに援軍として来襲した上杉憲政の軍を撃破するなど多大な戦果をあげる。
翌天文17年2月14日(1548年)の上田原の戦いで板垣信方、甘利虎泰の両宿将を失った信玄は、劣勢を挽回するべく天文19年9月9日(1550年)に村上氏の拠点である砥石城を包囲した。高松も参戦して攻撃を開始するが、難攻不落の様相を呈する天然の要害に手を焼き、武田軍はやむなく退却を始めるが、ここで村上軍が退却する武田軍に襲い掛かり大混乱に陥る。世に言う砥石崩れであるが、高松は混乱する自軍を殿軍として支えて村上軍を一手に引き受けて戦死する。
その死は信玄を嘆かせ、後に近習の者に「武篇の者になろうとするなら、原美濃、横田備中のようになれ」と言い伝えたと言われる。なお、原虎胤の実子の康景は高松の婿養子となり、その跡を継いでいる。
この横田家の末裔は江戸幕府の旗本の最高位として九千五百石を領している。