町田米軍機墜落事故
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町田米軍機墜落事故(まちだべいぐんきついらくじこ)とは、1964年4月5日に発生した航空事故である。
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[編集] 事故の経緯
- 同日嘉手納飛行場(嘉手納基地)を発進したアメリカ海軍の戦闘機(F8U-2 クルセイダージェット戦闘機)が厚木基地へ向かう途中で故障を起こし、機体が町田市の中心部である原町田(現・原町田二丁目)に墜落した。墜落地周辺では衝撃及び火災により一般市民4名が死亡、32名の重軽傷者を出した。なお、乗員1名はパラシュートで近くの高ヶ坂団地に着地後、米軍病院に収容された。
- 墜落地は当時の原町田の繁華街の一部をなしていたにもかかわらず、最小限の被害だけですんだ。要因として以下のようなものが考えられる。
- 60度という角度で墜落したこと
- 長距離飛行だったため、燃料が残り少なくなっていたこと
- ジェット機の空中分解などがほとんどなかったこと
- 当時の町田市及び周辺住民が迅速な救助作業を行ったこと
- 墜落機は南南東の方向から墜落したと推測され、この事故の5ヶ月後におきた大和米軍機墜落事故のように、墜落後2km以上の暴滑走という事態が起こっていれば、町田市の中心部は甚大な被害を被っていただろうとは、当時の青山藤吉郎市長の談である。
[編集] 事故後の経緯
- 町田市およびその他行政機関の迅速な作業により、生存者の救出や、現場の保全修復が滞りなく行われた。後年起きた米軍機墜落事故にみられた米軍による情報統制や現場介入といったことは行われなかった。
- ジョンソン大統領による弔問の覚書があったほか、厚木海軍航空司令官や厚木基地憲兵隊司令官、岩国基地司令官、在日米軍賠償部長などが即座に訪れ、陳謝を行った。
- 墜落現場には今もなお、墜落機のエンジンが地中深く埋まっているとされる。墜落現場は事故直後は被災者の仮設住宅が設けられたが、今は月極駐車場となっており、墜落現場であったことを示すものは見当たらない。
- 墜落現場は、国鉄原町田駅が小田急寄りに移転(1980年)するまでは、名実ともに原町田の繁華街の一角であった。町田天満宮を目の前にし、後年小田急寄りの隣接地にはスーパーダイエーの関東一号店ができるなど(今はホテルエルシー、町田市立中央図書館、日本最大級のザ・ダイソーがある)繁栄を誇っていたが、今は中心部の賑わいからは外れてしまっている。
[編集] 参考図書
- 昭和39年米軍機墜落事故災害誌(復刻版)町田市発行
[編集] 外部リンク
町田市ホームページ(町田市周辺で発生した米軍・自衛隊機の事故)