玉袋筋太郎
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玉袋 筋太郎(たまぶくろ すじたろう、本名:赤江 祐一(あかえ ゆういち)、1967年6月22日 - )は、お笑いコンビ「浅草キッド」のメンバーである。東京都新宿区出身。中野実践商業高等学校(現・実践学園高等学校)卒業。オフィス北野所属。
[編集] 来歴・人物
1986年、ビートたけしに弟子入りする。1987年に水道橋博士と浅草キッドを結成。
- 芸名を決める宴席で最後の方になった際「シロマティ」、「蟻の門渡哲也」、そして「玉袋筋太郎」のうち一つを選ぶことになり、悩んだ末に今の芸名に決めたらしい(ウチくる!?内で発言)。
- あまりにも下品な芸名のためNHK出演の際は知恵袋賢太郎(ちえぶくろ けんたろう)などの名前に強制的に変更させられたり、本名のまま出演させられたことがある。また民放でも『熱血!平成教育学院』、『PRIDE-GP』のゲスト解説などゴールデンタイムの放送においては愛称玉ちゃん名義で出演しており、最近ではその玉ちゃん名義での出演が圧倒的に多くなっている。たけしの夢は玉袋が出世して「玉袋筋太郎さんです」とNHKなどで紹介してもらうことだと20年以上前に話していた。なお一時期えーへえ、さいく(くさい屁)と呼ばれていた時期がある。(「玉ちゃん」は2002年のタマちゃんブームに乗っかったため、いいイメージがあるということらしい。)
- ビートたけしの追っかけ界ではエリートとして有名であった。その当時『ビートたけしのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)に『高校生三人組』の一人としてレギュラー出演したことが縁であった。ちなみに、当時住んでいた新宿からニッポン放送本社のある有楽町まで自転車で通っていた。
- このことからすぐさま弟子入りを認められ『鬼怒川マッサージ』の芸名を受けた。一方、三人組のうちで玉袋だけが残る形となって弟子になった後は「実家から通います」とたけしに言った途端、たけしから「それじゃ駄目だ、これで部屋を借りろ」と現金20万円を手渡された(しかしそれを持ってすぐ遊びに走った)。ちなみに、それ以前に高校卒業後アサヒビール(現・アサヒ飲料)の就職が内定しており、それを蹴落としての軍団入りになった。
- 過去にはたけしの旧知の仲である島田洋七の下へ付き人として動いていた時期もあり、「島田玉七」を名乗っていたが、表舞台に顔を出していたわけではなく、活動していたのも短期間であった為、認知されてるのはほんのごく一部である。
- 父は、オカマバーを経営していた頃がある。当時、そうとは知らず父の職場を訪れた玉袋に、オカマ姿の父が「男の職場に子供が来るな」と一喝したという伝説がある。また、学生時代に帰宅したとき、妹の学校の制服(セーラー服)をめぐって父と妹が「貸せ」「貸さない」の取り合いをしていたらしい。
- 男児2児の父親でもあり、あまり表沙汰にはしていないが家族サービスも常に行っている。