特別科学学級
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特別科学学級(とくべつかがくがっきゅう)とは第二次世界大戦末期、日本を支える優秀な科学者や技術者の育成を目的として設けられた英才学級のこと。特別科学教育学級とも呼ぶ。
1944年9月9日、衆議院議員永井柳太郎によって衆議院に建議され、同年9月11日に可決。
同年12月26日、文部省は、東京高等師範学校(筑波大学)、広島高等師範学校(広島大学教育学部)、金沢高等師範学校(金沢大学教育学部)、東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学)に特別科学教育班を設置。全国各地の国民学校の4~6年生および旧制中学校の1~3年生の中から物理学・化学・生物学・数学に秀でた生徒を選抜し、上記各校の附属小中学校にて、1945年1月から授業を開始した。
さらに同年4月からは、湯川秀樹教授や駒井卓教授たちの意向により、京都帝国大学にも特別科学教育班が設置された。京都帝国大学に附属校は存在しなかったので、京都府立第一中学校(京都府立洛北高等学校)と京都師範学校附属国民学校(京都教育大学附属小学校)に特別科学学級が設置され、こちらは同年5月22日から授業が始まった。各学年の定員は30名だった。
授業の内容は、数学や物理学や化学は言うに及ばず、当時敵性語だった英語から、さらに国語・漢文・歴史にもわたっていた。各師範学校や帝国大学の教官がじきじきに旧制高等学校(現在の四年制大学教養課程)レベルの授業をおこなった。当時禁書とされていた津田左右吉の『古事記及び日本書紀の新研究』を題材に用いるなど、当時の軍国主義的イデオロギーにとらわれない高度な内容の授業で、進み方も速かった。
さらに、生徒に対しては学徒動員時にも学習を継続しうる特権を認めるとともに、上級校進学に際して便宜を図る建前だった。
しかし、敗戦後になってから「差別的で民主主義に反する」との批判を受け、1946年11月に廃止が決定され、1947年3月を以て終了となった。ただし、スーパーサイエンスハイスクール構想に特別科学学級の精神が受け継がれていると見る向きは多い。
卒業生のほとんどは東京大学や京都大学、大阪大学などに進んだ。卒業者の結束は固く、戦後もしばしば同窓会をおこなっている。