永井柳太郎
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永井柳太郎(ながいりゅうたろう,1881年4月16日-1944年12月4日)は、政治家。
石川県金沢の士族の家に生まれる。同志社中学、関西学院を経て早稲田大学を卒業。在学中早稲田大学雄弁会に所属し、同会での演説が大隈重信に認められオックスフォード大学に留学。帰国後早稲田大学で教鞭をとる。1917年衆議院選挙に立候補するが、政友会の中橋徳五郎に203票差で敗れる。中橋が、大阪9区に回った1920年、衆議院議員に初当選。以後連続8期連続当選し、拓務大臣 逓信大臣 鉄道大臣を歴任。雄弁家として知られた。
三木内閣の文部大臣 永井道雄は長男。 民主党の衆議院議員 鮫島宗明は孫。
[編集] 語録
- 「来たり 見たり 敗れたり」
- 「西にレーニン,東に原敬」
- 1920年衆議院において初めての演説。(この演説で初懲罰を受ける)