澄田智
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澄田 智(すみた さとし、1916年9月4日 - )は群馬県出身の第25代日本銀行総裁。陸軍中将澄田ライ四郎{ライは貝偏に來}の長男。
[編集] 来歴・人物
1940年、東京帝国大学法学部を卒業後、大蔵省に入省。しかし、戦争の為、すぐに大蔵省を離れ、海軍経理学校に入校・卒業し、その後、従軍先のセレベス島にて終戦を迎える。戦後、大蔵省に復帰すると、順調に出世の階段を上り、1969年には同省事務次官に就任。「大物事務次官」の要件とされる2年間の任期を全うする。同省退官後は、輸銀に総裁として天下り、輸銀退任後には日本銀行に進む等、所謂「ロイヤル・ロード」を歩み続けた。1979年、前川春雄日銀総裁の下で副総裁職に就いたのだが前川が輸銀時代には澄田の部下であった為(澄田輸銀総裁時代に副総裁職に居たのが前川であった)、この人事は「逆転人事」として話題を呼んだ。5年間の雌伏の時を経て、1984年に念願の第25代日本銀行総裁に就任。戦後、大蔵省のロイヤル・ロードを極めたのは、山際正道・森永貞一郎に続いて3人目のことであった。
日銀総裁の座に就いた澄田の前には、日米貿易摩擦とバブル経済という2つの難局が待ち受けていた。折からのアメリカの対日貿易赤字の拡大に際して、アメリカ側は日本側への政治的圧力を強めてきていた。澄田は金融当局の最高責任者の1人としてこの問題に対峙し、1985年のプラザ合意(ドル高是正)を成し遂げた。円高不況への懸念もあって澄田は金融政策を大幅に緩和したが、そのことが後のバブル経済生成の直接の引き金となってしまった。ブラック・マンデー後にはドル暴落懸念もあって、日本経済がバブル化していく最中にあっても金融引締めへのかじ取りが出来ず、結果日本経済はバブルの中に引きずり込まれてしまった。
バブルを膨らませるだけ膨らませてしまった後、澄田は日銀総裁を退任しその後任には日銀プロパーの三重野康が就いた。澄田によるこうした一連の金融政策運営については、「バブルの元凶だ」として厳しい批判がなされたが、その一方で「この頃はまだ日銀の独立性が確立されていない時期で、その上に、アメリカから凄まじい外圧が加えられた中では、澄田に出来ることは限られていた」という澄田擁護の声も極一部には挙がった。いずれにせよ、バブル生成時期における澄田の政治的責任(結果責任)は厳しく指弾されよう。
[編集] 経歴
- 1940年 東京帝国大学法学部卒業
- 1940年 大蔵省入省
- 1940年 海軍経理学校に入校、卒業
- 1945年 セレベス島で終戦を迎える
- 1946年 大蔵省に復帰
- 1963年 主計局次長
- 1965年 経済企画庁官房長
- 1966年 銀行局長
- 1969年 事務次官
- 1972年 日本輸出入銀行総裁
- 1979年 日本銀行副総裁
- 1984年 日本銀行総裁
- 1989年 日本銀行総裁退任
[編集] 著書
- 『忘れがたき日々七十五年 澄田智回想録』(金融財政事情研究会 1992年) ISBN 4322219411
- ※カッコ内は在任期間。