溝口安勝
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溝口 安勝(みぞぐち やすかつ、元和5年(1619年) - 元禄7年3月17日(1694年4月10日))は江戸時代の旗本。沢海藩初代藩主溝口善勝の三男。分家独立して旗本となる。通称は九十郎・孫左衛門。諱は初め直勝(なおかつ)、のち安勝に改める。母は加賀藩老臣前田長種の娘。正室は高林吉次の娘。
寛永11年(1634年)はじめて徳川家光に拝謁する。同年、父の遺領越後国蒲原郡のうちにて1000石を分与される。この知行地は越後国蒲原郡山口村(現新潟県阿賀野市山口町)を中心としていたことから、安勝の系統の家を山口溝口家とも称する。
慶安3年(1650年)書院番士となり、寛文4年(1664年)には上野・下野・常陸等の巡見使を勤める。寛文9年(1669年)には目付代として島原城に赴き、のち松平忠房への同城引き渡しを勤める。寛文12年(1672年)に使番となり、以後もしばしば各地への監察・使者の役目を勤めた。天和2年(1682年)には上野国山田郡のうちに500石の地を加増される。貞享2年(1685年)勤めを辞して寄合に列す。
元禄元年(1688年)に致仕(隠居)して家督を嫡子の溝口友勝に譲る。この時友勝には越後国の1000石を与え、同時に次男溝口常勝には上野国の500石を分与して分家独立させた。致仕後の号は安勝(このことから安勝の名は致仕後の晩年のみ使われた可能性もある)。元禄7年(1694年)3月17日に76歳で歿。法名は安勝。江戸貝塚の青松寺に葬り、以後同寺は当家代々の葬地となった。
なお安勝には上記の男子の他にひとりの女子があったが、この女子は安勝の弟溝口信勝の養女となったのち旗本逸見義寛に嫁いだ。