溝口善勝
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溝口 善勝(みぞぐち よしかつ、天正12年(1584年) - 寛永11年5月2日(1634年5月28日))は、越後沢海藩の初代藩主。溝口秀勝の次男。溝口宣勝の弟。母は長井源七郎の娘。官位は従五位下。伊豆守。正室は加賀藩老臣前田長種の娘。
1584年、加賀国大聖寺にて生まれる。通称は孫左衛門。はじめ父と共に豊臣氏に仕えたが、1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、戦後は徳川秀忠の家臣となった。1605年、秀忠の上洛に随行して従五位下、伊豆守に叙任する。1610年、父が死去したため、本家の家督は兄の宣勝が継いだが、分与により兄から1万2000石を与えられて、それまで領していた2000石と合わせて1万4000石の大名となり、沢海藩の初代藩主となった。
1614年からの大坂の陣においては徳川方に与し、土井利勝の与力として武功を挙げた。1627年8月からは大坂城の守備を努めている。1634年5月2日、51歳で死去し、後を長男の溝口政勝が継いだ。法号は大岳道徹利性院。墓所:江戸貝塚の青松寺。
善勝には長男政勝の他、次男溝口助勝、三男溝口安勝、四男溝口信勝があったが、助勝・安勝・信勝はそれぞれ分家独立して幕府の旗本となった。