浅野啓司
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
浅野 啓司(あさの けいし、1949年2月22日 - )は、昭和後期から平成期(1970年代-2000年代前半)のプロ野球選手、投手。右投げ右打ち。プロ野球指導者。広島県福山市草戸町出身。
[編集] 来歴・人物
阪急・オリックスの中軸だった藤井康雄は同じ町内出身。福山電波工高(現近大福山高)では村田兆治は1学年下。創部わずか三年目の1965年夏、二年生エースとして広島県予選で快進撃。低めに球を集める抜群の制球力で、伊原春樹のいた北川工業(現府中東高)、山本和行・三村敏之のいた広島商業を撃破、50イニング・失点1と決勝まで勝ち上がったが広陵高校に大敗した。
三年の時、別の選手を見に来ていたサンケイのスカウトの目に留まり、1966年のドラフトでサンケイから9位指名され、1967年入団。高卒ルーキーながら、いきなり50試合に登板し8勝を上げた。以来18年間、第一線で活躍。美しいフォームから抜群の制球力で、松岡弘や安田猛らとともに、主力投手としてヤクルト不遇の時代を支えた。チーム合計で33勝だった1970年には前半だけで6勝を上げた。8年間で66勝を上げたが腰を痛めた。広岡達朗監督の指導法も合わず1977年には巨人へ移籍。同年9勝4敗1Sをあげ、カムバック賞を受賞する。その後はリリーフ投手として活躍し、1984年、引退。
実働18年間で542試合、86勝116敗10セーブ。
その後、ラジオ日本・テレビ朝日の解説者を経て、1990年ヤクルト投手、1998年日本ハム投手コーチ、2000年二軍投手コーチを歴任し正田樹らを育てた。2003年から2005年まで台湾・中信鯨(中信ホエールズ)投手コーチ。2006年より元阪神、ロッテの藤倉一雅らとともに、元プロ野球選手としては初めて、大学野球部の指導者になることに決まった。関甲新学生野球連盟の白鴎大学監督に就任予定。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 日本の野球選手 | 東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の選手 | 読売ジャイアンツの選手 | 野球解説者 | 広島県出身の人物 | 1949年生