伊原春樹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊原 春樹(いはら はるき、1949年1月18日 - )は、プロ野球選手・プロ野球監督。広島県府中市(旧:甲奴郡上下町)出身。旧名伊原春植(-しゅんしょく)。現役時代は西鉄・太平洋・クラウン・西武、巨人でプレー。引退後は西武、阪神、オリックスのコーチ・監督を歴任した。現巨人野手総合コーチ。
目次 |
[編集] 来歴・人物
広島県立北川工業高等学校(現:広島県立府中東高等学校)→芝浦工業大学から1970年ドラフト2位で西鉄ライオンズに入団。主に三塁手として活躍していたが、1976年に関本四十四・玉井信博とのトレードで加藤初と共に読売ジャイアンツに移籍。2年間在籍したのち自由契約となり、1978年にクラウンライターライオンズに復帰。1980年限りで現役引退。
1981年の西武ライオンズ二軍守備走塁コーチ補佐を皮切りに、一軍守備走塁コーチ、作戦・走塁コーチを歴任。森祇晶、東尾修監督時代の三塁ベースコーチとして的確な走塁判断を行い、相手の癖を見抜く能力も遺憾なく発揮した。自分の守備時にベンチでメモ帳に相手選手の癖を書きとめる姿が、相手チームに脅威を与えたのは有名。
『西武の頭脳』と呼ばれるほど永きに渡ってコーチを務めてきたが、1999年オフ、東尾修監督との野球観の相違、フロントからの首脳陣若返り策の煽りを受け、電撃解任される。2000年に阪神タイガースの守備走塁コーチとなるが、野村克也監督と意見が合わずこの年限りで退団し、2001年西武に作戦・走塁コーチとして復帰。このシーズン限りで東尾監督が辞任し、当初伊東勤に監督就任要請していたが、伊東本人に現役続行の意思があった為、監督要請を受け就任した。
2002年の就任1年目に首位独走し、リーグ優勝を果たす。球団最高並びに新人監督勝利数新記録の90勝を挙げた。しかし対巨人との日本シリーズではまさかの4連敗をくらう。2003年は2位で終わるものの、当初から伊東のつなぎだったため解任される。2004年にはオリックス・ブルーウェーブより監督就任要請を受け就任。チームの再建を期待されたが、手薄な戦力、選手達との確執が原因で結局最下位になってしまう。そして、大阪近鉄バファローズとの合併を受けて監督を退任した。
- 2005年よりニッポン放送・Jスポーツ(CS衛星テレビ)のプロ野球解説者、日刊スポーツ評論家、ベースボール・マガジン社顧問。(2005年の横浜対西武の交流戦の1試合のみtvkの野球中継で解説者となる。
- 2006年シーズンオフより巨人野手総合コーチに就任。
[編集] エピソード
- 1985~1994年までは背番号78であったが、東尾修が監督就任時に78を希望した為、1995年より背番号73をつける。これは南夫人の名前(なみ)にあやかった為であり、西武、オリックスの監督就任時にもこれを貫いたが、2007年より巨人の野手総合コーチに就任すると78をつけた。これは日本一8回になったゲンのいい番であるからという理由である。
- 選手・監督としてより、選手のクセを見抜く3塁ベースコーチとしてその名を球史に残す。あまりにも有名な1987年の巨人との日本シリーズ、球史に残る伝説のプレーを演出した。シリーズ第6戦、八回裏、2対1と西武1点リードで迎えた二死一塁、秋山幸二がセンター前ヒット。通常は一、二塁、あるいは一、三塁の場面。ところが、ファーストランナー辻発彦がノンストップでセカンドベース、サードベースをも駆け抜け、ホームベースを一気に奪ってしまった。センター前ヒットで一塁ランナーがホームに帰るなど常識ではあり得ない。セントラル・リーグの他チームが気づかなかったウォーレン・クロマティの緩慢な返球と、中継プレーに入るショート川相昌弘(現・中日コーチ)が走者を見ない(打者走者の二塁進塁を警戒して打者走者を見るために右回転する)クセを見抜き、ホームへ生還させたのである。選手としては大成できなかったが、多くの球団を渡り歩いた末に身に着けたキャリアの集大成を見せたといえる。なお、この試合では二塁ランナー(清原)をセンターフライ(クロマティの捕球)によるタッチアップでホームインさせるという快挙もなしとげている。また西武監督時代も、しばしば三塁コーチャーズボックスから指示を送っていた。
- ホームでのクロスプレーでは、捕手のミット目掛けて突進しろと指導。これはミットからボールを落とさせて本塁生還させる意図である。
- 妥協と甘えを許さない非常に厳しい鬼軍曹型の指導方法で知られ、それぞれ指導の一環として、西武時代には甲子園のヒーローとして鳴り物入りで入団した清原を殴り、阪神時代には野村監督の息子であるカツノリにヒザ蹴りを入れたといわれる。
- 学生運動で芝浦工業大学がロックアウトをとるなど授業がうけられなくなったことと、入団先が福岡であったことから卒業に要する単位があと数単位足らず、中途退学扱いとなっていたが、2003年に再入学し、2004年には残っていた単位を取得して卒業。卒業式は当時の江崎玲於奈学長らをまじえて、マスコミにも紹介され話題となった。
- 現役時代宅建を、それも初回受験で合格。これは当時の伊原の居住先の大家が大学卒業を果たせず、また特に資格を持たなかった伊原を見かね、「ユニフォームを脱いでも職に困らぬよう」受験を薦めたからである。なお、伊原は後年この大家の娘と結婚したが、さすがに大家夫妻は結婚を決断するときは戸惑ったという。
- あまり知られていないが、王貞治が通算700号本塁打を放った試合に巨人の選手として出場していた。
- 西武監督時代には、自分の事を「監督」ではなく「伊原さん」と呼ぶように指示し、違反したら罰金を科していた。これは、権藤博が横浜監督時代にやっていたことと同じことであったが、伊原は監督就任時にはそのことを知らなかったようで、キャンプ時に記者から権藤がそのようなことをやって日本一になり、自分も同じようになるのではないかと聞かれると、「そのようになるといいんだけどね」と言った。結局、西武はこの年日本一は逃したものの、4年ぶりの優勝を飾った。
- 後年、トミー・ラソーダの「俺にはドジャー・ブルーの血が流れている。」に倣って「俺にはライオンズ・ブルーの血が流れている。」とまで言った伊原だが、1978年の所沢への球団移転に対しては、東尾、竹之内雅史らと共に最後まで反対していたことで知られる。
- 阪神タイガースコーチ時代、2000年6月8日の巨人戦では、ランナー二塁の場面で巨人・河本育之が送りバント処理の際三塁悪送球、この際、巨人の三塁手・元木大介は二塁から三塁に進んだ平尾博嗣の上に乗りかかった。これを見た伊原は三塁コーチボックスを飛び出して元木を突き飛ばし、平尾を本塁に向かわせた。伊原のこの行為に対し巨人側から守備妨害のアピールがあったが、平尾のホームインは認められた。
- 紳士的な見た目で冷静沈着という印象もあるが2004年に行なわれた千葉ロッテマリーンズとのオープン戦では試合中、3塁コーチャーズボックスで指示を出す姿に3塁ベンチにいたボビー・バレンタイン監督が抗議、「じゃかましいわ!コノヤロー!」と大激怒し試合中にも関わらず数分間、バレンタイン監督と口ゲンカが続いた。かたや日本語、かたや英語という完全に一方通行な口ゲンカであった。伊原はケンカの間中コーチャーズボックスでブロックサインを出し続けており、そのシュールな状況はその年の珍プレー好プレーでも放映され、笑いを誘った。
- オリックス・近鉄の合併騒動の最中、選手会が行った合併反対の署名活動を「署名活動をする時間があるのならその分練習すべきだ」という内容の発言をしたと報じられた。
- 同じ2004年の大阪ドームでの近鉄戦で川越英隆がKOされた時、試合中であるにもかかわらず川越を呼びつけ、ベンチで怒鳴りつける姿がテレビカメラに映された。相手の近鉄の選手や首脳陣もこれを見てあ然としていた。
- ニッポン放送の野球中継前に、野村克也の物真似をしたことがある。
- アナログ人間でもあり携帯電話が大嫌いで、西武時代に首脳陣が持たせようとしたが「携帯電話で、自身の行動範囲を縛られる感覚が理解できない」と固辞。現在も携帯電話は持っていない。
- 一条工務店で数年前に家を新築したらしい。
[編集] 通算成績
- 試合 450
- 打率 .241
- 打数 784
- 安打 189
- 本塁打 12
- 打点 58
- 盗塁 7
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | チーム本塁打 | チーム打率 | チーム防御率 | 年齢 | 球団 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2002年 | 平成14年 | 1位 | 140 | 90 | 49 | 1 | .647 | 183 | .278 | 3.20 | 53歳 | 西武 |
2003年 | 平成15年 | 2位 | 140 | 77 | 61 | 2 | .558 | 191 | .271 | 4.43 | 54歳 | |
2004年 | 平成16年 | 6位 | 133 | 49 | 82 | 2 | .374 | 112 | .283 | 5.65 | 55歳 | オリックス |
- ※1 2001年から2003年までは140試合制
- ※2 2004年から135試合制
- 監督通算成績 413試合 216勝192敗5分 勝率.529
[編集] 関連項目
- オリックス・ブルーウェーブ監督
- (2004年)
-
- 先代:
- レオン・リー(2003年途中)
- ※カッコ内は監督在任期間。
読売ジャイアンツ - 2007 | |
---|---|
0 木村拓也 | 2 小笠原道大 | 6 小坂誠 | 7 二岡智宏 | 8 谷佳知 | 9 清水隆行 | 10 阿部慎之助 | 11 久保裕也 | 12 鈴木尚広 | 13 林昌範 | 15 辻内崇伸 | 17 姜建銘 | 19 上原浩治 | 20 豊田清 | 21 高橋尚成 | 22 福田聡志 | 23 脇谷亮太 | 24 高橋由伸 | 25 李承燁 | 26 内海哲也 | 27 門倉健 | 28(新人) 金刃憲人 | 29 前田幸長 | 30 西村健太朗 | 31 小関竜也 | 32(新人) 円谷英俊 | 33 野間口貴彦 | 35 越智大祐 | 36 岩舘学 | 37 斉藤宜之 | 38(新人) 上野貴久 | 39 吉武真太郎 | 41 木佐貫洋 | 42 パウエル | 43 真田裕貴 | 44 大道典嘉 | 45 小田嶋正邦 | 47 工藤公康 | 48 矢野謙次 | 50 吉川元浩 | 51 古城茂幸 | 52 十川孝富 | 54 酒井順也 | 56 加藤健 | 59(新人) 深沢和帆 | 60 深田拓也 | 61(新人) 坂本勇人 | 63 会田有志 | 65 梅田浩 | 66(新人) 田中大二郎 | 67 加登脇卓真 | 69(新人) 寺内崇幸 | 90(新人) 深町亮介 | 92 木村正太 | 93 東野峻 | 96(新人) 伊集院峰弘 | 102(育成選手) 山口鉄也 | 103(育成選手) 芦沢明 | 104(育成選手) 下山学 | 105(育成選手) 松本哲也 | 106(育成選手) 林羿豪 | 107(育成選手) 隠善智也 | 108(育成選手) 作田啓一 | 109(育成選手) 鈴木誠 | 110(育成選手) 大抜亮祐 | 未定(育成選手) 山本光将 | 未定(育成選手) 佐藤弘祐 | 未定 實松一成 | 未定 星孝典 | 未定 亀井義行 | 未定 三木均 | 未定 野口茂樹 | 未定 村田善則 | 未定 三浦貴| 未定 川中基嗣 | 未定 栂野雅史 | |
88 監督 原辰徳 | 87 尾花高夫 | 78 伊原春樹 | 85 斎藤雅樹 | 81 篠塚和典 | 84 内田順三 | 71 伊勢孝夫 | 89 村田真一 | 83 西岡良洋 | 76 白坂契 | 82 木村龍治 | 77 二軍監督 吉村禎章 | 70 小谷正勝 | 72 香田勲男 | 75 岡崎郁 | 86 岸川勝也 | 79 福王昭仁 | 73 緒方耕一 | 74 西山秀二 | 未定 伊藤博 | 未定 宮本英治 |
|
球団 | |
カテゴリ: 日本の野球選手 | 西武ライオンズ及びその前身球団の選手 | 読売ジャイアンツの選手 | 野球監督 | 野球解説者 | 広島県出身の人物 | 1949年生