波羅蜜
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基本教義 |
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縁起、四諦、八正道 |
三法印、四法印 |
諸行無常、諸法無我 |
涅槃寂静、一切皆苦 |
人物 |
釈迦、十大弟子、龍樹 |
如来・菩薩 |
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部派・宗派 |
原始仏教、上座部、大乗 |
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聖地 |
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波羅蜜(はらみつ)とは、サンスクリット語のपारमिता Pāramitā(パーラミター)の音写。
玄奘以降の新訳では波羅蜜多(はらみた)と音写する。
中国や日本の伝統的な解釈では、これを
- pāram(彼岸に)+ita(到った)
という過去分詞の女性形と読み、彼岸(覚り)に到る行と解するのが通例である。「度(ど)」「到(とう)彼岸」などの訳語や、チベット語訳のpha rol tu phyin pa(彼岸に到った)もまたこの解釈からきている。
一方、言語学的に支持されているのは、Pāramitā を、
- 「pārami」(<parama 最高の)+「tā」(状態)
と分解する説で、「究極最高であること」「完成態」と解釈すべきとしている。
[編集] 意義の変遷
部派仏教時代には、「完成」という言葉は、努力に努力を重ね、階梯的に高みへと上り到達するというような意味で使われていたが、大乗仏教においては一般にそうではない。極端な言い方をすれば、人智を超えた境地、二項対立的判断を超越した彼岸に到達することである。此岸・彼岸という言葉自体も二項対立的概念であるが、そういう概念自体を超克することをいうのである。言葉(ロゴス)は二項対立的にできているわけだから、波羅蜜を言葉で説明することは不可能である。しかし般若経におけるブッダは、言葉で伝える以外ないのだとして繰り返し繰り返し、饒舌と言ってよいくらいこれを説いている。
般若経では般若波羅蜜(般若波羅蜜多)ほか全6種(六波羅蜜)を、あるいは華厳経などではこれに4種を加え10種(十波羅蜜)を数える、菩薩の基本的な実践徳目。摩訶般若波羅蜜経は、九十一波羅蜜を枚挙するが、全体としての徳目は六波羅蜜である。
[編集] 六波羅蜜(ろくはらみつ、ろっぱらみつ)
大乗仏教以前からある、菩薩が修めなくてはならない六種の実践徳目のことで、「六度(ろくど)」とも呼ばれる。菩薩は、この六徳目を得て自利利他の大行を究竟し、涅槃の彼岸に到る。
- 檀那波羅蜜(だんなはらみつ) 檀那(Dānaダーナ)は、布施と訳す。財施、無畏施、法施の行。
- 尸羅波羅蜜(しら―) 尸羅(Śīla)は戒と訳す。持戒のこと。
- 羼提波羅蜜(せんだい―) 羼提(Ksyānti)は忍辱と訳す。苦難に耐え忍ぶこと。
- 毘梨耶波羅蜜(びりや―) 毘梨耶(Vīrya)は精進と訳す。身心を精励して六波羅蜜を進修すること。
- 禅那波羅蜜(ぜんな―) 禅那(Dhyāna)は禅定と訳す。真理を思惟して散乱の心を定止すること。四禅、四無色定、九次第定、百八三昧など。
- 般若波羅蜜(はんにゃ―) 般若(prajñāプラジュナー)は智慧と訳す。諸法に通達する智、断惑証理する慧。前五波羅蜜は、この般若波羅蜜を成就するための手段であるとともに、般若波羅蜜による調御によって成就される。大乗仏教においては、その代表的な論書である大智度論に、この故に般若波羅蜜のみに摩訶(mahāマハー)をつけて摩訶般若波羅蜜というのであると説かれている。また、この言葉を表題にする摩訶般若波羅蜜経大明品第三十二には深般若波羅蜜という語が頻出するが、大乗のいわゆる小乗における般若波羅蜜の浅行を批判する表現といわれている。この深般若波羅蜜は、そのまま般若心経の初句に表れるのは知られるところである。