江戸前寿司
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江戸前寿司(えどまえずし)とは、鮨の一種。酢飯を握り、ワサビを付けて、新鮮な魚片などを乗せたものである。1820年代に江戸で開発された。江戸前とは東京湾のことで、江戸の前海で取れた新鮮な魚介類を使うことから、この言葉が始まった。現在では東京湾産の魚介に限らず、この種の寿司の名称となっている。
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[編集] 起源
諸説あるが、最も有名なのが、江戸本所の華屋與兵衛が始めたという説。昭和初期まで栄えた老舗「與兵衛鮓」の始祖、華屋與兵衛の子孫小泉迂外によれば文政7年1824年頃握り寿司を始め、江戸で大ブームとなった。当初屋台で始めたがやがて立派な家屋を構え、安宅の松が鮓(松の鮓とも表記)と並ぶ贅沢鮓となり、へっつい岸の毛抜鮨とともに「江戸三鮨」と謳われた。江戸時代から戦前迄は内店と呼ばれる店と屋台店と呼ばれる店に両極分化しており、有名な内店は今日の銀座の高級店以上の贅沢さを誇っていた。贅沢鮓は基本的に持ち帰りであり、今日のファーストフードに相当するのは屋台店で出していた鮓。この両極分化は銀座の高級鮨店と回転寿司の共存関係と類似している。但し、現在の高級鮨店の大半は屋台店の流れを汲んでいる。
握り鮨(鮓、すし)はへっつい岸笹巻きけぬきすし等をヒントにしたと考えられている。飯を笹に巻いて軍用携帯食にすることは戦国時代に始まり笹巻きけぬきすしはこの流れを汲んでいる。現代大阪寿司に起源を求めることは出来ない。何故なら現代大阪寿司は天保初め「福本」という店が改良を加えた鮓が大いに持て囃され、以降他店もこれに倣ったと言われるからだ。現在に続く承応2年創業すし萬が「福本」からどの程度影響を受けているかは不明。また握り鮨を計数する際の助数詞である貫も、この時期に江戸前から派生したとされる。当時、1貫に相当する分量が約40~50g(現代の握り寿司に換算して約2個分相当)と確定され、後の世の職人が食べやすく2分割したことから2個1貫と計数されるようになった。(参照:寿司)
尚、「寿司の字は縁起の良い寿という字を使った当て字」とされるが、当て字というより仮名と解釈すべき。蕎麦屋の暖簾に「楚者゛」、団子屋の暖簾に「多゛无古゛」由来の仮名が用いられているのと同じである。一部鮨店にある「寿し」表記も漢字で書くなら「寿之」であり、「寿し」表記は「多゛ん古゛」という漢字仮名交じり表記に相当する。
[編集] 江戸前の成立条件
江戸前寿司が成立するためには、米、酢、江戸前海で捕れる魚、醤油、ワサビが必要である。
握り鮓成立以前に早鮓と呼ばれる鮓が成立していた。この起源は明確ではなく、一説に延宝年間(1673~1680)幕府御典医松本善甫が考案したおじゃれずしが嚆矢ともされるが、乳酸発酵を待たず酢を使う鮓の原型は安土桃山時代に上方で成立していたと考えられる。更に、握り鮓成立以前の江戸中期には江戸市中に鮓屋台が出現し、錦絵等にも描かれる程早鮓は一般的なものになっていた。
酢そのものは古代に中国から伝来していたが、室町時代に料理の調味料として一般に使用されるようになり、酢の生産が拡大して広く普及するのは江戸時代である。酢の普及が鮓普及の前提条件となったわけである。握り鮨の酢として重要だったのは半田の中野家(現在の中埜家)で醸造された粕酢「山吹」であった。この酢は酒粕から作られた赤酢で旨味もあり、両国の與兵衛鮓でも昭和初期に店を閉める迄この酢を使っていた。従来の酢は酒を造り更に酢酸発酵させるためコストが掛かったが、酒粕を原料とする「山吹」は酢の製造コスト削減に寄与し、早鮓普及の一因となった。最近ミツカンから復刻商品が発売されている。
握り鮓には江戸前海で捕れる魚が必須だが、冷蔵庫のなかった当時、生のままでは鮓種にせず、煮る(穴子、蛤、白魚、車蝦、等)、酢で絞める(小鰭、鯵、等)、醤油に漬ける(鮪)等の加工が加えられていた。魚だけでなく玉子焼きや、干瓢等も用いられており、鮓種に関しては現代江戸前鮨より寧ろ現代上方鮓に近い。因みに生魚が鮨種の主役の地位に躍り出るのは冷蔵設備が発達してから。尚、江戸前とは江戸前海で捕れる鰻に限定して用いられていたが江戸前海の魚にも拡大して用いられるようになった。
日本人は古くから生の魚を食べてきたようだが、刺身という言葉が登場するのは室町時代。江戸時代に醤油の大量生産が始まり、刺身に醤油を付けて食べるようになった。但し、江戸末期に至る迄江戸では鯛や鮃等の白身魚は煎り酒で食べるのが普通であった。醤油は紀州等から製法が伝えられた後独自の改良が加えられ野田や銚子で盛んに生産されていた。
ワサビは山野に自生する植物で、古くから調味料として用いられているが、江戸時代に駿河で栽培が始まり、薬味としてわさびが欠かせないものとなる。握り鮨にわさびを挟む工夫をしたのも華屋與兵衛といわれる。天保の改革で與兵衛鮓は贅沢過ぎるとして與兵衛等は手鎖の刑に処せられワサビ使用禁止となった。この禁制は幕末迄続く。
尚、鮪が用いられるようになったのは天保年間に江戸近郊で鮪が大量に捕れて以来。與兵衛鮓では昭和の初期に店を閉める迄当時下魚とされていた鮪は用いなかった。今日「鮨種の王」とされる鮪は主に屋台店で用いれていたに過ぎない。因みに当時最も高価な鮨種は玉子焼きで他の鮨種の2倍した。
[編集] 江戸前の普及
守貞謾稿によれば文政末には大阪にも伝わり嘉永初めには大阪諸所に広まった。これが第一期。
明治後も江戸前寿司は東京を中心に作られていたが、関東大震災で東京の寿司職人が全国に散らばり、江戸前の寿司屋が各地に広まった。これが第二期。
戦中・戦後の食糧統制で、自由な鮓店営業が出来なくなった。米一合を持ち込むと手間賃と引き換えに握り鮨10個に加工するという委託加工制によって巷の鮓屋が息を吹き返した。この際、握り鮨だけが許可されたことから握り鮨が全国を席巻することとなった。これが第三期。
食糧統制がなくなって以降江戸前と称する鮓が不動の地位を獲得するに至った最大の要因として、冷蔵・冷凍技術の発達と流通の発展が挙げられる。東京では既に内店の流れを汲む高級店は昭和初期に絶滅し屋台店の流れを汲む店だけになっていた。鮪は明治時代には人気の鮨種になっており、鮪だけでなく鯛や鮃等も生で供するようになっていったと考えられる。冷蔵・冷凍技術と流通の発展により、従来は火を通していた烏賊や鮑が生で使われるようになったし、酢絞めしていた鯵や細魚も生もしくは酢洗いで供するようになった。時代を追うに従って世界中の海産物を生で鮨種に利用出来るようになり、回転寿司等の廉価店が爆発的に普及した。今日では伝統的な鮓文化を誇った京大阪でも江戸前握り鮨が鮓の標準たる地位を獲得している。江戸前握り鮨普及は必ずしも「東京から地方へ」といった一方通行ではない。舎利に砂糖を入れて保湿効果を高めたり、出汁巻きを採用したりと、関西流儀が全国標準になったものもある。烏賊の包丁捌きや塩の利用等博多流儀も全国標準になりつつある。更にはsushiが世界遍く普及しつつある。これが第四期。
本来江戸前とされてきた鮨から一歩も二歩も進化、或いは変化したものになったことは否めない。創業者を自認した者から見たら鮪なんて屋台店でしか使わない下魚に過ぎなかったし、戦前の江戸前鮨屋から見たら烏賊や鯵を生のまま使うなんて手抜きに過ぎなかった。甘い舎利や海外経由で入ってきた「裏巻き」に眉を顰める向きも少なくない。