毛利高政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
毛利 高政(もうり たかまさ、1559年(永禄2年) - 1628年12月11日(寛永5年11月16日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将(大名)。豊後国佐伯藩の初代藩主。父は森高次、母は瀬尾小太郎の女。室は木曾義昌の女。兄に毛利重政がいる。子に毛利高成、毛利高明。
通称は勘八郎。本名の諱は友重。官位は従五位下。豊臣政権下では民部大輔。江戸時代より伊勢守。
尾張国海東郡荒子荘花筏村で生まれた。当初、森姓を称した。父高次(九郎左衛門)が羽柴秀吉の馬廻衆であったことから、高政は1577年(天正5)より出仕している。1580年(同8)、森家は播磨明石郡松ノ郷で3000石(一説には6000石)を宛がわれた。1582年(同10年)、本能寺の変で信長が横死すると、羽柴秀吉は主君の仇を討つべく、中国大返しを計画する。このとき毛利氏へ人質として送り出されたのが高政と兄重政である。高政は毛利輝元に気に入られて、「苗字の唱ふる所の同じきこそ怪しけれ、然るべくは我名字まいらせて、和君等と永く兄弟の契り結ばん」と輝元に言わしめたと藩史にはある。以後、毛利姓を名乗るようになる。
1583年(天正11)の大坂城築城、1586年(同14)の方広寺建立の際には石材運搬の奉行を務めている。1587年(同15)、九州平定では舟奉行。1589年(同17)、山城国の検地奉行を石川貞通とともに務める。1590年(同18)には兵600を率いて小田原攻めに参陣、戦後に行われた後陽成天皇の聚楽第行幸の際には陪従している。1591年(同19)、朝鮮出兵の備えとして対馬に陣城普請を命じられ、清水山城・撃方山城・向ノ平砦を築いている。1592年(文禄元)、文禄の朝鮮出兵では舟奉行を務め、春川合戦で敵将元豪を生け捕るという武勲を立てている。
1595年(文禄4)9月、豊後国日田・玖珠二郡の内で20000石(一説には60000石ともいう)の朱印を受けた。併せて両郡内の蔵入地も預けられ代官を兼務した。日隈城(隈城)を居城とし、五層六階の天守閣、三層の月見櫓等を増築している。玖珠に築いた角牟礼城も近年、発掘調査によって大規模な遺構が確認され、学術的に注目されている。1597年(慶長2)、慶長の朝鮮出兵では軍目付(いくさめつけ)に任命され、南原城攻略では軍功を挙げている。1600年(同5)、関ヶ原の戦いでははじめは西軍に与し、丹後田辺城(舞鶴城)攻めに参加するも途中、東軍に寝返った。藤堂高虎のとりなしが改易を免れた要因の一つとなった。
1601年(同6)、豊後海部郡(現在の大分県佐伯市周辺)20000石へ転封となった。1606年(同11)、佐伯城を完成させた。前後して城下町の普請も行っている。レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』によれば慶長11年、「エルナンド・デ・サン・ヨゼフ師(アウグスチノ会)は、当時豊後から佐伯近くに行き、城下に小さな修道院を建て、聖ヨゼフの保護の下に置いた。伊勢守殿(高政)という大名は一度改宗したことのある背教者であり、自費で天主堂、もう一つさらに大規模な修道院を建てた」とある。
外様大名だったので江戸城、駿府城、名古屋城、大坂城と立続けに手伝普請を命じられ、また参勤交代、江戸藩邸の造営・維持費用等も加わり、藩財政は極度に悪化する。
1628年11月16日、70歳で死去した。墓は高輪東禅寺。法名は養賢寺院殿前勢洲剋史乾外紹元。
■主な家臣団
【一門】 毛利吉安・毛利高明・森兵庫
【重臣】 沼隼人・戸倉織部・西名兵部・岡崎主水・磯部大膳・益田主殿・長右京・並河信吉・梶谷左京・三好若狭・豊田元勝。この十一名は毛利姓を許された。
【士分】 箕川長兵衛・樋田茂兵衛・財津三郎右衛門・坂本太郎右衛門・羽野作内・高瀬仙九郎・石松五介・関内蔵之丞・斉藤権右衛門・津久見志摩・加島清太夫・羽山勘右衛門・梅原与九郎・梶西庄庵・石川喜左衛門・赤井九兵衛