木曾義昌
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木曾 義昌(きそ よしまさ、天文9年(1540年) - 文禄4年3月17日(1595年4月26日))は戦国時代の信濃国の武将。木曽谷の領主木曽氏の第18代当主。父は木曾義康。
義康親子は当初小笠原氏や上杉氏と手を結んで武田信玄と争ったが、1555年に信玄の猛攻を受けて降伏し、臣従した。木曾氏は源義仲の流れを汲むと称する木曾の名族であり、美濃と信濃の国境を押さえる重要地帯を押さえる地域を押さえていたため、信玄はこのとき、義昌に三女の真理姫(真竜院)を娶わせて親族衆として遇している。 木曾氏は武田氏の力を背景に次第に支配力を木曽谷に確立していった。
その後、信玄の時代は忠実な家臣として活躍したが、その子・武田勝頼とは仲が悪く、1582年、武田氏への賦役増大に不満を募らせた義昌は織田信長と通じて武田氏に対して謀反を起こし、同年の武田攻めには織田軍の先鋒を務めた。これに激怒した武田勝頼に攻められるが(詳細は天目山の戦いへ)、織田信忠の援軍を得て鳥居峠で武田軍を破って武田家滅亡に一翼を担った。しかし、1582年の2月2日、武田軍が新府城を出発する前、甲府に人質として送られ、勝頼が新府城に移ってからは、上野豊後守の元に預けられていた70歳の義昌の母・13歳の長男の千太郎・17歳の長女は見せしめのため処刑された。武田氏滅亡後、信長から木曽谷のみならず安曇・筑摩二郡を与えられ、深志城(松本城)を得た。 戦後、その功により信長から加増を受けている。 だが、その際に正室・真理姫は実家を裏切った夫と共に暮らすことを良しとせずに、離別して木曽山地に隠棲したと言われている。
しかしまもなく本能寺の変で信長が家臣の明智光秀に殺害されると、信濃も混乱する。これを機会と深志の旧領主小笠原氏が信濃に帰還し、義昌は深志城を奪われて再び木曽谷を領有するのみとなった。信濃に徳川家康が進出してくると、徳川氏に従属、1584年、家康が羽柴秀吉と対立すると秀吉傘下に鞍替えするが、家康と秀吉の和睦が成立して信濃一国の支配権が家康に認められると、再び徳川氏の配下に戻った。
1590年、徳川氏の関東移封に伴って子義利に下総国阿知戸(現在の千葉県旭市網戸)の1万石が与えられ木曽谷の領地は失った。1595年下総国阿知戸で亡くなり、後を子の木曾義利が継いだ。
墓所は網戸(阿知戸)の東漸寺にある。遺体は椿の海に水葬されたという。その後寛文10年(1670年)に椿の海は干拓され干潟八万石になったが、現在その一角に木曽義昌公歴史公園が造られている。義昌の死後、義利はかねて不和の叔父、上松義豊(義昌の弟)を殺すなど乱暴な振る舞いが目立ったため家康の怒りを買い、1600年阿知戸1万石を没収された。義利は山中に隠棲していた母の元に戻って隠棲したと伝えられている。
武田氏の一族の重鎮でありながら、真っ先に織田側に寝返り、武田氏滅亡の原因を作ったため、同じ娘婿の穴山梅雪、滅亡寸前に裏切った小山田信茂同様、その評判が山梨県ではもっぱら悪いが、長野県では小領主ながら見事な処世術を見せた名君として評価されている。