槇文彦
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槇 文彦(まき ふみひこ、1928年9月6日 - )は日本の建築家。モダニズム建築の正統的な作品や幕張メッセなどのメタリックな作品で知られる。
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[編集] 来歴・人物
東京都出身。東京大学工学部建築学科に入り、丹下健三の研究室で学び、1952年卒業。クランブルク美術学院およびハーバード大学大学院修士課程修了。ワシントン大学とハーバード大学で都市デザインを講じた。1965年に槇総合計画事務所を設立。1979年~1989年に東京大学教授を務めた。戦後モダニズム建築の正統的な建築家と評されている。
[編集] 作品
- 名古屋大学豊田講堂(1960年、名古屋市) - 日本建築学会賞
- 立正大学熊谷校舎
- 代官山集合住宅(ヒルサイドテラス)(1969年-、東京都) - 日本芸術大賞、プリンスオブウェールズ都市デザイン賞
- 岩崎美術館
- 慶應義塾図書館新館(1981年)
- 電通関西支社(1983年、大阪市) - BCS賞
- 藤沢市秋葉台体育館 - 日本建築学会賞
- スパイラル(1985年)
- 慶應義塾日吉図書館(1985年)
- 京都国立近代美術館(1986年、京都市) - BCS賞
- テピア(1989年)
- 幕張メッセ(1989年、千葉市) - BCS賞、IAITAクォーターナリオ賞 新建築8912
- 富山市民プラザ(1989年)
- 東京体育館(1990年、東京都) - BCS賞
- 慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)(1990年、藤沢市)
- 東京キリストの教会 - ドラマ「協奏曲」で木村拓哉が設計した教会の舞台となった
- イザール・ビューロ・パーク(1995年、ミュンヘン)
- 福岡大学60周年記念館
- 風の丘葬斎場(1997年、中津市) - 村野藤吾賞、BCS賞
- ヒルサイドウエスト
- 福島県男女共生センター
- TRAID
- 福井県立図書館(2003年、福井市) - 中部建築賞
- テレビ朝日六本木6丁目本社ビル(六本木ヒルズ)(2003年、東京都)
- 東京大学法科大学院棟
- 横浜アイランドタワー
- MITメディアラボ棟(進行中)
- 国際連合増築(計画中)
- タワー4 - 世界貿易センター跡地に建設予定(計画中)
[編集] 設計思想・評価
- ハーバード大学でホセ・ルイ・セルトのスタジオで学んでいたこともあり、かなり純粋なモダニズム建築の作家といえる。
- ヒルサイドテラスは旧山手通り沿いで数次にかけて実施したプロジェクトであるが、ヒューマンスケールな空間構成、成長する都市建築として高く評価されている。10m軒線を守り、用途地域が変わった第六期では、10m以上の部分をセットバックさせている。一方、幕張メッセなどではモダン・無機質でメタリックなデザインが印象的である。
- 「空間の重層性」を意識し、東京キリストの教会の礼拝堂大開口や、テレビ朝日の立体格子などに特徴的に現れている。
- 槇の建築の端正さは、日本のゼネコンの技術力によるものだ、と言われたこともある。しかし、イザール・ビューロ・パークで現地の施工業者を使い、第一線級の作品を仕上げたことでその評価が誤りだったことを証明した。(GA JAPANで二川幸夫が述べたエピソード)
- 槇本人が、作風について「豊田講堂が一番丹下先生に近かった。」と述べている。(新建築)
- 「タマちゃんのような建築をつくりたい。」と述べた。(GA JAPAN)
[編集] 受賞
- 1993年プリッカー賞
- 1993年UIAゴールドメダル(国際建築家連合より)
- 1999年高松宮殿下記念世界文化賞
- 朝日賞
- 日本建築学会賞大賞
- レイノルズ賞
[編集] 著作・作品集
- 見えがくれする都市(鹿島出版会)
- 記憶の形象
- 槇文彦(新建築社JAの作品集)
- 現代の建築家槇文彦 1~4(鹿島出版会)
- 4でのヒルサイドテラスの特集では、槇自身が隅入りや円柱について述べている。当時は進行中のプロジェクトであったテレビ朝日なども掲載されている。
- 槇事務所のディテール(鹿島出版会)
[編集] その他
- 世界的に活躍しており、ウィキペディアフランス語版でも詳細な解説が見られる。
- 元倉眞琴、栗生明、高谷時彦などは槇総合計画事務所の出身である。また、新建築誌上で伊東豊雄らを野武士と名づけたことは有名である。コンペの審査員などでは、東京国際フォーラム公開コンペの審査委員長などを務めた。
- 現代建築の軌跡(INAX出版)では、豊田講堂の図面をル・コルビュジエに見せて、耐震壁について注意されたことを語っている。
- 小嶋一浩は、当時東大教授だった槇に、助手就任を要請されたのはスパイラルの一階カフェであることを明かしている。
- 槇事務所は現在、ヒルサイドウエストにある。
- セルトはかつてル・コルビュジエのアトリエで前川國男の同僚だったことから槇の帰国後前川との親交が始まった。
[編集] Style et caractéristiques /様式と特徴(フランス語版より)
槇文彦は、決然として近代的でありながら、自然の衝動や日本文化の独自性を尊重するような、彼の固有の様式を創案することを知っている。 彼はしばしば子供たちの隠れん坊遊び、そして見られずに見ることを可能にする「避難と見通しの場」を参考にする。 彼は到達すべき目標を提供する庇護された場所に通じる環状に結ばれたいくつかの交通経路を構築する。 彼は奥という概念、隠すが完全には隠さないこれらの互いに重なり合う空間層を導入する。彼は近代都市のなかで増殖する全面的に不透明あるいは全面的に透明な、善悪二元論的建築に反対する。 具体的には彼の建築はコンクリート、金属そしてガラスで作られているが、しかし彼はモザイク、表面防蝕処理されたアルミニウムそして木材を内装に統合することもまた知っている。諸々の耐震基準が厳格な日本において、彼はこの制約を尊重するために、軽快さに賭けることを知っている。 彼は一建築家にとっては尋常ではない長い時間の持続のうえに計画を進めることを知っている。最も強烈な印象を与える例は東京渋谷におけるヒルサイド・テラス・コンプレックスの住居、オフィスそして商業ゾーンの計画である。彼は1969年の第一期から1992年の第四期まで計画を導き進める。