桜内義雄
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桜内義雄(さくらうち よしお、1912年5月8日 - 2003年7月5日)は、日本の政治家(元自由民主党衆議院議員)、第67代衆議院議長(在任期間・1990年2月27日 - 1993年6月18日)。父は民政党衆議院議員だった島根県出身の桜内幸雄。
[編集] 経歴
幼稚舎から慶應義塾に学び、慶應義塾大学経済学部卒。1947年、旧東京1区から衆議院議員選挙に初当選。一時参院に転じたが、父・幸雄のあとを継いで旧島根全県区から衆議院議員選挙に連続当選17回。自民党内では河野一郎派に属し、1964年、池田勇人内閣で通産大臣として初入閣。河野の死後は中曽根康弘派の幹部となり、農林大臣、建設大臣、国土庁長官、自民党政調会長、外務大臣、自民党幹事長など要職を歴任。
幹事長在職中に大平内閣に対する反主流派の造反があり、桜内は党執行部の長として主流派と自らの所属派閥を含む反主流派の調停に奔走したが果たせずハプニング解散となる。しかし自らの出身の中曽根派からは中曽根の意向もあり稲葉修の他に造反者は出さなかった。反主流派の造反に加え選挙運動開始直後の大平の急死という異常事態の中で選挙の責任者として主流派・反主流派をよくまとめ自民党を大勝に導く。その功績や調停における公正さを評価され、ハプニング解散の責任者であるにもかかわらず鈴木善幸政権においても幹事長に留任する。党内抗争の仲裁に当たって「桜内政権」の構想が浮上したこともある。
中曽根の首相在任中は、派閥会長の座を預かり、派内のまとめ役に徹した。1989年、中曽根がリクルート事件に関与した疑いで離党した後も、一時派閥を預かったが、1990年2月から衆議院議長に就任(1986年の総選挙後も党内で議長候補となるが、中曽根派をまとめる人物が桜内氏以外いないという理由から見送られていた)。派閥会長の座を渡辺美智雄に譲った。派閥会長就任時、マスメディアに対し、「中曽根さんはもう離党したのだから「旧中曽根派」ではなく、「桜内派」と呼んで欲しい」と要請するも、果たされず。議長在職中にPKO法案の審議が行われ、牛歩戦術などによる社会党、共産党、社民連の激しい抵抗を排除して法案を可決させた。二度提出された政治改革法案はいずれも成立には至らず、それを理由とする自民党内の造反により宮沢内閣不信任案が可決された。その直後の衆議院解散(嘘つき解散)の際に解散詔書の読み上げが議長としての最後の仕事となる。2000年、政界引退。
大の宝塚ファンで知られ、長らく愛宝会会長を務めた他、日本カヌー協会会長、日本国際貿易促進協会会長等数々の団体のトップも務めた。かつては「国会議員速歩の会」を主催。
2003年7月5日、呼吸不全のため死去。享年91
[編集] 略歴
- 1947年4月 衆議院議員選挙に初当選
- 1950年6月 参議院議員選挙に島根地方区より出馬、当選。
- 1951年12月 当選無効により議員を退職。(選挙時、「桜内幸雄」と書かれた票が有効とみなされ、当選したが、次点だった小瀧彬に「幸雄」票は無効ではないかと訴えられ、裁判の結果、「幸雄」票は無効となり、小瀧が当選者となった)
- 1952年10月 衆議院議員選挙で当選し、議員に返り咲く。
- 1964年7月 通商産業大臣(池田勇人・佐藤栄作内閣)
- 1972年7月 自民党政務調査会長(田中角栄総裁)
- 1972年12月 農林大臣(田中角栄内閣)
- 1976年9月 自民党政務調査会長(三木武夫総裁)
- 1977年11月 建設大臣、国土庁長官(福田赳夫内閣)
- 1979年11月 自民党幹事長(大平正芳・鈴木善幸総裁)
- 1981年11月 外務大臣(鈴木善幸内閣)訪米時、ワシントン・DCポトマック川沿いの桜並木を散策し「私の名前は桜内、アイアム・チェリーボーイ!!(私は童貞です)」(本人は駄洒落のつもりで言ったらしい。またチェリーボーイはオカマの隠語でもある)と発言し、全米マスコミに衝撃を与える
- 1982年12月 政策科学研究所(中曽根派)会長。
- 1990年2月 第67代衆議院議長
- 1992年 日米貿易摩擦に関連して「アメリカ人は働かない」と発言し、問題に。
- 2000年6月 政界引退
- 2003年7月5日 死去 享年91