桂小文治
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桂小文治(かつら こぶんじ、1893年(明治26年)3月28日 - 1966年(昭和42年)11月28日は、大正・昭和期の落語家。本名稲田裕次郎。
大阪市港区生まれ。1907年(明治40年)、七代目桂文治門下となり桂小米。1915年(大正5年)、二代目桂米丸を襲名。若手の有望株として活躍する。1916年(大正6年)、東京寄席演芸会社の招きで上京。始め1ヶ月の契約だったのが、そのまま東京に定住。1917年(大正7年)桂小文治と改名。後、落語睦会に移籍。六代目柳橋、(俗に)三代目柳好、八代目文楽と並ぶ「睦の四天王」の一角として人気を得る。その後日本演芸協会、さらに日本芸術協会(現在の落語芸術協会の前身)に加わり、副会長として、会長の六代目春風亭柳橋を補佐する。上方噺家でありながら、東京落語界の幹部となった。
始めは上方仕込の芝居噺や江戸弁と上方弁をミックスした新作落語を演じていたが、晩年は、本格的な上方落語を演じるようになり、明るくはんなりとした上方色豊かな芸風で東京のファンを喜ばせた。三遊亭百生とともに、上方落語を紹介した業績は大きい。また、戦後衰亡していた上方落語復興のため、当時の若手であった六代目笑福亭松鶴、桂米朝らを支えた。戎橋松竹や道頓堀角座にも定期的に出演していた。(ただし肩書きは「東京落語」であった。)
得意ネタは芝居噺では「加賀見山」「質屋芝居」「蛸芝居」「蔵丁稚」、音曲噺では「紙屑屋」(昭和36年度芸術祭奨励賞受賞)「辻占茶屋」「稽古屋」。本格派の落語では「しじみ売り」「木津川」「百年目」「菊江の仏壇」「七度狐」「出歯吉」「正月丁稚」「稲荷車」「鳥屋坊主」「立ち切り」など。踊りの名手で、一席終わった後「目をごらん。」と言いながら躍る「奴さん」「名古屋甚句」などは、寄席の踊りとして絶品であった。
面倒見のよい性格で、他所の門をしくじった落語家をひきとったので門人も多く、五代目古今亭今輔、二代目桂枝太郎、四代目三遊亭圓遊、二代目桂小南、十代目桂文治、桂小金治などがいる。