松平頼位
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松平 頼位(まつだいら よりたか、文化7年2月13日(1810年3月17日) - 明治19年(1886年)11月)は、常陸宍戸藩の第8代藩主。第10代藩主。父は第5代藩主・松平頼救(頼位は四男)。母は田口氏。正室は松平保福の娘。側室に佐々木氏。官位は従五位下。主税頭。贈従四位。
1810年2月13日生まれ。幼名は豊四郎。1839年、先代藩主の松平頼筠が嗣子無くして死去したため、その養嗣子となって後を継いだ。藩主就任前から徳川斉昭の本家水戸藩相続に尽力し、斉昭に従って藩政改革を行なっている。1846年9月21日、家督を子の松平頼徳に譲って隠居したが、その後も本家を継いだ徳川慶篤の補佐を務めている。1864年、水戸藩にて天狗党の乱が起こると、子の頼徳は鎮圧に失敗したことを幕府より咎められて切腹し、頼位自身も連座で拘禁され、宍戸藩は廃藩となった。
1868年2月、新政府より宍戸藩の復活を許されて、頼位は藩主として再任する。1869年の版籍奉還で藩知事となり、1871年の廃藩置県で免官される。その後は神官となった。文化人として優れており、徳川斉昭の事蹟をまとめた「告志篇」や「明倫歌集」10巻などがある。明治13年7月、家督を子の松平頼安に譲った。
1886年11月、77歳で死去。墓所:常陸太田市の瑞龍山。