松平頼救
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松平 頼救(まつだいら よりすけ、宝暦6年2月15日(1756年3月15日) - 文政13年5月4日(1830年6月24日))は、常陸宍戸藩の第5代藩主。父は本家水戸藩の第5代藩主・徳川宗翰(頼救は六男)。母は中沢氏。正室は松平頼多の娘・喜多。側室に杉崎氏。田口氏。中里氏。岩崎氏。官位は従五位下。大炊頭。
1756年2月15日生まれ。幼名は熊十郎。1766年、先代藩主の頼多が死去したため、その婿養子として後を継いだ。1802年4月5日、子の松平頼敬に家督を譲って隠居し、同年5月には剃髪して大翁と号した。1808年には太玄斎と号する。1830年5月4日、75歳で死去した。法号:広正院。円誉至徳太玄。墓所;常陸太田市の瑞竜山。
書道や茶道に優れた教養人であり、「垂裕閑法帖」16巻を編纂している。