松平忠昌
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松平 忠昌(まつだいら ただまさ、1598年1月21日(慶長2年12月14日) - 1645年9月20日(正保2年8月1日))は、江戸時代前期の大名。越前国福井藩初代(北庄藩3代目)藩主。結城秀康の次男で、松平忠直の同母弟。母は中川一茂の娘・清涼院。
[編集] 経歴
大坂に生まれる。1607年、祖父の徳川家康、叔父の徳川秀忠に謁見し、上総国姉崎に1万石の所領を与えられた。武勇に優れた血気高い人物で、1615年正月に元服し、直後の大坂夏の陣では大いに活躍した。その功績により、常陸国下妻3万石へ加増移封された。1616年には信濃国松代藩12万石へ、1618年には越後国高田藩25万石へ加増移封されている。
1623年、もともと秀忠と仲が悪く、素行にも粗暴な一面があった兄・忠直は幕命によって藩主の地位を追われた。その後、越前松平氏の家督は忠直の子・仙千代が継いだが、幕命によって忠昌を越前北之庄50万石の大名とし、仙千代が忠昌の高田領を継ぐこととなったのである。
こうして50万石を領する大大名となった忠昌は、『北』が敗北に通じるということで、地名を『福居』と改めた(さらにこれは、元禄時代に『福井』となった)。さらに福井に入った忠昌は法令を公布し、領内の安定に努め、家臣団の規律を定めて統率を強化した。忠昌の治世は洪水・疫病・地震など何度も災厄に見舞われ、治世は多難を極めたが、忠昌は見事な手腕を見せて藩政を安定化させ、それを乗り切った。1637年、幕府より2万5000石を加増される。1645年8月1日死亡。墓地は永平寺。
忠昌は武勇に優れていたために武を好んで槍術師・剣術師・柔術師・弓術者・砲術師・軍学者などを多数召抱えた。しかし忠昌の死後、子孫は家督相続問題などから次第に所領を減封されていったのである。
[編集] 関連項目
- 越前松平氏(姉ヶ崎藩)藩主
- 1607~1615
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- 先代:
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- 次代:
- 松平直政
- 越前松平氏(下妻藩)藩主
- 1615~1616
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- 先代:
- 徳川頼房
- 次代:
- 松平定綱
- 越前松平氏(松代藩)藩主
- 1616~1618
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- 先代:
- 松平忠輝
- 次代:
- 酒井忠勝
- 越前松平氏(高田藩)藩主
- 1618~1623
-
- 先代:
- 酒井忠勝
- 次代:
- 松平光長
- 越前松平氏(福井藩初代)藩主
- 1623~1645
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- 先代:
- 松平忠直
- 次代:
- 松平光通