朴憲永
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
朴憲永 | |
---|---|
{{{picture-type}}} | |
{{{caption}}} | |
各種表記 | |
チョソングル: | 박헌영 |
漢字: | 朴憲永 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
{{{hiragana}}} |
片仮名: (現地語読み仮名): |
パク・ホニョン |
ラテン文字転写: | {{{latin}}} |
英語表記: | Park Hun Yung |
朴憲永(パク・ホニョン、1900年 - 1955年)は、朝鮮の政治家で共産主義者、エスペランチスト。日本語読みは「ぼくけんえい」。
1919年に三・一独立運動に参加。日本側の官憲に目を付けられ、上海に亡命する。アジア・太平洋戦争における日本の敗戦を迎えると植民地時代の民族運動家は一斉に組織活動を開始した。植民地時代末期まで運動を継続していた者の多くは社会主義者だった。社会主義者たちは無数の組織を作り上げた。
米ソ両軍の軍政下に置かれると朴憲泳は朝鮮共産党再建準備委員会を結成した。この前に、十数名の共産主義者によって朝鮮共産党が結成されていた。彼らはソウル・長安ビルに看板を掲げたことから長安派共産党と呼ばれた、朴憲泳による共産党は再建派共産党と呼ばれた。長安派は朴憲泳を指導者に迎えようとしたが、朴憲泳はこれを拒否し、長安派に解散を求めた。激しい論争の末、長安派は解党し再建派に加わるに至った。
朴憲永がソウルにおける共産主義者を統合するまでに、平壌では朝鮮共産党北部分局を発足させたため、朴憲永は南半部におけるリーダーとなった。のち、朝鮮共産党北部分局は名称を北朝鮮共産党とあらためる。この段階では、朝鮮共産主義のみならず、朝鮮における政治運動の主流はすべてソウルでの活動にあるとみなされていた。
その後同党は他の左派・共産主義政党と合併し「南朝鮮労働党」(南労党)を結成。しかし米国をバックとする韓国政府の弾圧を受け、朴を含む指導部はソ連をバックとする朝鮮民主主義人民共和国へと越境する。一説では、1946年2月に、新生北朝鮮の指導者に、金日成と朴憲永のどちらが相応しいかを決める面接がモスクワでスターリンにより行われ、金日成に軍配が上げられたとも言われる。
北朝鮮労働党と南朝鮮労働党が合併し、朝鮮労働党が成立するとその中央委員会副委員長(委員長は金日成)に就任。その後は副首相や外相を務めた。
国内系共産主義者たち(以下、国内系)、とりわけ朴憲永に代表される南朝鮮労働党系(以下、南労党系)と、金日成派(満州派)とは長く対立していた。朝鮮戦争が事実上、中国人民義勇軍司令官・彭徳懐の指揮によって遂行されたことで金日成は国内の政敵に集中できる環境にいた。朝鮮戦争が膠着状態に陥ったころから、金日成は党の掌握に専念し、政敵の追い落としを準備していたと考えられている。
朝鮮戦争が失敗に終わると、その責任を巡って国内系と金日成派(満州派)との対立が激化した。朴憲永を押し立てた国内系は組織的に金日成に挑戦した。1953年の初頭に国内系はクーデタを企てたとされている[1]。朴憲永以下南労党系はクーデタ容疑で一斉に逮捕された。同1953年8月には大々的な見せしめ裁判が展開された。ところが、李承燁・李康国・林和・裵哲ら南労党系の有力者が問われたのはクーデタ未遂容疑ではなかった。彼らは、「米帝のスパイ」として働き朝鮮戦争を失敗に導いたことを罪状として処刑された[2]。
朴憲永だけが他の被告と分離され、裁判も遅れて開始され、1955年に処刑された。容疑は1919年(三・一独立運動)から「米帝の廻しもの」になり、植民地時代からスパイ活動を行い、解放後は南半部で意図的に無謀なデモやストライキを組織して多数の共産主義者を殺戮し、ついには北朝鮮政府の転覆を狙ったという、他の被告に対するものにもましてばかげた内容であった。朴憲永はこれらの容疑をすべて認めた。彼の訴追が遅れたのは、これらの容疑を認めさせるのに時間がかかったのであろうと考えられている。