服部嵐雪
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服部 嵐雪(はっとり らんせつ、承応3年(1654年) - 宝永4年10月13日(1707年11月6日))は、江戸時代前期の俳諧師。幼名は久馬之助、通称は孫之丞、彦兵衛など。別号は嵐亭治助、雪中庵、不白軒、寒蓼斎、玄峯堂など。江戸湯島生まれ。松尾芭蕉の高弟。雪門の祖。
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[編集] 経歴
服部家は淡路出身の武家で、父服部喜太夫高治も常陸麻生藩主・新庄直時などに仕えた下級武士で、長男である嵐雪も一時、常陸笠間藩主の井上正利に仕えたことがある。若い頃は相当な不良青年で悪所通いは日常茶飯事であった。1673年、松尾芭蕉に入門、蕉門で最古参の一人となる。1678年、不卜編『俳諧江戸広小路』に付句が2句入集したのが作品の初見である。1680年には同門宝井其角の『田舎之句合』に序を草し、『桃青門弟独吟廿歌仙』に入集、以後『虚栗(みなしぐり)』、『続虚栗』などに作品を採用された。1688年には『若水』を刊行し、同年立机して宗匠となり、1690年には『其机(そのふくろ)』を刊行して俳名を高めた。1694年、『露払』の斤にからんで深川蕉門との対立を生じ、代えて『或時集(あるときしゆう)』を刊行。また翌年には芭蕉の一周忌追善集『若菜集』を刊行した。作風は柔和な温雅さを特徴とする。芭蕉は嵐雪の才能を高く評価し、1692年3月3日の桃の節句に「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」と称えたが、芭蕉の奥州行脚にも嵐雪は送別吟を贈っていないなど、師弟関係に軋みが発生していた。1694年10月22日、江戸で芭蕉の訃報を聞く。その日のうちに一門を参集して芭蕉追悼句会を開き、桃隣と一緒に芭蕉が葬られた膳所の義仲寺に向かった。義仲寺で嵐雪が詠んだ句は、「この下にかくねむるらん雪仏」であった。其角と実力は拮抗し、芭蕉をして「両の手に桃と桜や草の蛭」と詠んだ程であったが、芭蕉没後は江戸俳壇を其角と二分する趣があった。1707年10月13日没。享年54。追善集に百里斤『風の上』など。その門流は、雪門として特に中興期以後一派を形成した。
[編集] 代表作
[編集] 『枕屏風』
- 布団着て寝たる姿や東山
[編集] 『遠のく』
- 梅一輪いちりんほどの暖かさ
[編集] 『萩の露』
- 名月や煙はひ行く水の上
[編集] 『曠野(あらの)』
- 庵の夜もみじかくなりぬすこしづゝ
- かくれ家やよめ菜の中に残る菊
- 我もらじ新酒は人の醒やすき
[編集] 『虚栗』
- 我や来ぬひと夜よし原天の川
[編集] 『続虚栗』
- 濡縁や薺こぼるる土ながら
- 木枯らしの吹き行くうしろすがた哉
[編集] 『猿蓑』
- 雪は申さず先ず紫の筑波かな
- 狗背の塵に選らるる蕨かな
- 出替りや稚ごころに物哀れ
- 下闇や地虫ながらの蝉の聲
- 花すゝき大名衆をまつり哉
- 裾折て菜をつみしらん草枕
- 出替や幼ごゝろに物あはれ
- 狗脊の塵にゑらるゝわらびかな
[編集] 『炭俵』
- 兼好も莚織けり花ざかり
- うぐひすにほうと息する朝哉
- 鋸にからきめみせて花つばき
- 花はよも毛虫にならじ家櫻
- 塩うをの裏ほす日也衣がへ
- 行燈を月の夜にせんほとゝぎす
- 文もなく口上もなし粽五把
- 早乙女にかへてとりたる菜飯哉
- 竹の子や兒の歯ぐきのうつくしき
- 七夕やふりかへりたるあまの川
- 相撲取ならぶや秋のからにしき
- 山臥の見事に出立師走哉
[編集] 『續猿蓑』
- 濡縁や薺こぼるゝ土ながら
- 楪の世阿彌まつりや靑かづら
- 喰物もみな水くさし魂まつり
[編集] 『杜撰集』
- 魂まつりここがねがひのみやこなり
[編集] 句集
- しだり尾の長屋長屋に菖蒲かな
- 木がらしに梢の柿の名残かな
[編集] 辞世句
- 一葉散る咄ひとはちる風の上