日講
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日講(にっこう、寛永3年3月27日(1626年4月23日) - 元禄11年3月10日(1698年4月20日))は、江戸時代前期の日蓮宗の僧。号は安国院。京都の出身。
妙覚寺(京都府)日習を師として出家し、下総国の飯高檀林(現在千葉県八日市場市飯高寺)、中村檀林(現在千葉県多古町日本寺)で不受不施派の思想を学んだ。幕府は不受不施派の取締りを強化していたことから、1665年(寛文5年)日蓮宗の寺院に対し、幕府からの朱印地は国主が寺院に対し、供養したものと認める手形の提出を命じたが、当時の不受不施派の本門寺(東京都)日樹らはこれを拒否した。日講はこの政策に「守正護国章」を呈上して幕府を非難している。1666年(寛文6年)幕府はさらに地子・寺領だけでなく、飲み水や行路にいたるすべてが国主の供養である旨の手形の提出を命じたが、日講はこれも拒否した。この結果、日講は日向国佐土原に配流となったが、島津氏の帰依を受け、この地に布教している。日講の著書「録内啓蒙」はこの時書かれたものである。
1682年(天和2年)、岡山で起きた不受不施派内の論争は、不受不施派を導師派と不導師派に二分し、不導師派の日講の系統は不受不施日蓮講門宗となる。